ペットボトルの声からの〈責任論〉
お昼休み。
「この暑い中、信じられない」
そんな声を背中に受けながら、
僕は気分転換に散歩へ出かける。
その帰り道。
歩道の真ん中に落ちていたペットボトル。
ペットボトルは声をかけてくる。
「どうするの?」
僕はそのペットボトルを拾い上げる。
いい人ぶっているように思えて気が引けたけれど、
持ち帰って捨てる覚悟を決める。
そして、
最後の信号を渡ったところにまた落ちていた。
2つ目のペットボトル。
「どうするの?」
僕は聞こえないふりをした。
「責任」
誰かがポイ捨てしたペットボトル。
僕に責任はあるのだろうか?
生きていると避けては通れない存在。
「責任」
仕事から、
人間関係、
健康、
趣味にまで、
うん、重い。。。
なんでこんなに重いのか?
確かに重そうな言葉が並ぶ。
担ったり、
務めたり、
任せられたこと
についての責めを負うってこと?
つまり、
失敗が許されないってこと?
成功するのが当然で、
失敗したら責められるってこと?
重いのも納得。
確かに昔の人は、
責任を果たせなかったら
首をちょん切られたり、
自分の腹を切り裂いたりしていたらしい。
重すぎる。
昨今、
あちこちから聞こえてくる
「責任」
自己責任の時代なんて言われたりもする。
真面目な人が責任を一人で背負って苦しむ。
そうだろう。
失敗したら責めを負うようなことを他人にシェアはできない。
そう、
そんな国がここ日本。
ここは江戸時代?
もう変わっているはず。
明治政府は西洋式の制度と文化を輸入した。
江戸の制度や文化から西洋式に変わってしまった。
それなら「責任」も変えたっていいのでは?
「責任」から
「responsibility(レスポンシビリティ)」へ
ここからは持論。
「responsibility」も
今では非難を受けるべき状態を意味するけれど、
もともとは
「response-」応答する+「iblity」~できる
つまり、
「応答可能性」を意味するみたい。
なにに“応答”するのか?
僕に呼び掛けてくる声に。
仕事や、
友人や、
自分の身体や、
趣味からの
期待や要望の声。
「あなたはどうするの?」
それに僕は“応えようとする”。
それが
「responsibility」
大事なのは
“応えようとする”ことだと思う。
成功がゴールでもなく、
失敗でおしまいでもない。
僕への問いかけに最後はない。
「それで、おまえはどうするの?」
この終わりのない問いに“応えようとする”こと。
それが本当の「責任」。
「責任」に応えようとすると、
“心の負担を感じる”
心の中で決断しなといけないから、
だから心の負担を感じる。
その心の負担を乗り越えて決断したとき、
僕は
「責任」に応えたと自信を持てる。
何かしらの失敗が生じたとき、
そんなとき、
多くの場合で罰を受けて終わりになる。
でも、
それで本当に「責任」に応えたと言えるの?
罰も苦しいけれど
本当に苦しみは
「それで、あなたはどうするの?」
という問いへ逃げずに応えることじゃないかな?
「おまえはどうするの?」
その問いは苦しい。
だから、みんな言い訳ばかり。
僕も言い訳が頭によぎる。
で、僕はどうする?
逆に
結果がどうであれ、
「あなたはどうするの?」
に応えようと、
その問いに正面から向き合えば、
向き合うことをやめなければ、
しっかり「責任」を取っているのだと思う。
僕は、
ペットボトルからの呼びかけ
「どうするの?」に応えた。
そのとき僕は責任ある人になれた。
二つ目のペットボトルの問いかけは、
聞こえないふりをした。
僕は、責任から逃げた。
拾わないなら
「拾わない」としっかり応えるべきだった。
それがたとえ正しくないとしてとも。
世界からの問いかけを聞き逃さない。
その問いから逃げない。
「おまえはどうするの?」
にしっかり応えたい。
そう、
僕は「責任」ある“おとな”になりたいなんて思う。