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❷ 末娘が、生後11ヵ月の時「画びょう」を飲み込んだ!

小児病棟での日々 ~初めて知ったこと

末娘が入院した病院の小児病棟は、「感染性疾患」と「そうでないケース」で入院患者の病棟が、二つに分けられていた。娘は「感染症では無い方の病棟」に入院した。男の子ばかり4人が入院している病室に、生後11ヵ月の娘は入った。

この病院の小児病棟には「学校」があった。「学校」といっても、病室から直ぐの場所に、全部の学年の子ども達が集まって勉強をする「自習室のような部屋」があり、先生もいた。

右隣のベットの男の子は、中学生で、毎朝、パジャマ姿でリュックを持ってその場所まで行っていた。

左隣のベットの男の子は、小学4年で長女と同じ学年だった。彼は、一定の時間ごとに看護師さんが来て、何かの数値を測らなければならず、その「学校」には行っていなかった。午前中はゲームをやっているけれど、午後になると、勉強のことが心配になるのか、娘が学校で使っている同じ「漢字ドリル」を出してきて、ベットの上でやっていた。

別の病室には、入院生活をしながら、「普通の学校」に通っている子もいた。その子は学校から戻ると、制服からパジャマに着替えて、慣れた手つきで、何か管を自分で装着しベッドで過ごしていた。

私は、初めて「こういう生活を送っている子どもたちがいる」ことを知った。

毎日、小学生の娘に、苛立ちながら口うるさく怒っている自分は、「いったい何を、我が子に望んでいるのだろ~、子どもが、毎日学校に行き、その日の授業をちゃんと受け、体育の授業も見学することなく参加し、友達と日常を過ごせることは、本当にありがたいことなのだ」と、私は気づいたのだ。

忘れ物が多いと注意される我が娘を嘆くよりも、「元気に、学校生活を送っているって、すごいよ!」と娘を褒めよう~!そんな気持ちになった。

病室でのお母さん達の会話

毎日、夕方ごろになると、病室には、お母さん達がやってくる。私は、完全に場違いだったけれど、他のお母さんたち同士は、顔見知りでおしゃべりをしている。

「最初、子どもの病気のことが知りたくて、夢中になって調べたけれど、結局、治らないということがわかって、調べれば調べるほど、がっかりするだけだから、調べるのをやめたわ~」 

「私も、同じよ~」

そんな会話が聞こえてくる。

うちの娘は、「退院が決まっている入院」だった。日にちが経てば、確実に回復し、「退院の日」を迎える。しかし、同室の子ども達は、そうではない。うちの娘は、本当に健康的な赤ちゃんだった。そんな娘がいることが、どこか「申し訳ない」ような気持ちにさえなった。

今でも覚えている「あるお母さん」のこと

向かい側のベットにいは、長女より一つ年下の学年でいったら、小学3年生の男の子がいた。医療器具(たぶん人工呼吸器)を付けていた。当然ベットから起き上がることは出来ない。話すことも出来ない。

お母さんが、昼夜を問わず付き添い、何時間か、置きに「痰(たん)」を吸引していた。入浴の際は、9歳の息子をお母さんが抱っこして浴室まで連れていく。週末になるとお父さんと交代して、お母さんは、一晩だけ帰宅していた。このご両親は、私には想像もつかない生活を送りながら、息子を育てていた。

その子のお母さんは、殆どスペースがない、息子のベッドに毎晩、横になっていた。私も、子どものベットに一緒に横になりながら、夜を過ごしたけれど、うちの娘は11ヵ月の赤ちゃんだったから、そんなに体が大きいわけでは無いし、私も小柄なので、ベットに少し余裕があり、結構ちゃんと寝れた。

でもその子は、まちがいなく「9歳の子どもの身体」だった。だからそのお母さんは「横たわる」というより、ベットに「寄りかかっている状態」で、夜を過ごしていた。当然、夜中に何度も起きて「痰の吸引」をしている。

いったい、いつから、どうしてその子が、このような身体になってしまったのか、「尋ねる勇気」も「人生経験」も、私にはなかった。

その子のベットの周りには、元気でかわいい赤ちゃんの頃の息子の写真が、いっぱい貼ってあった。「たぶん、この子は元気に生まれたのだろう」その写真を見て、私は思った。

当たり障りのない世間話ですら、どう話したらいいのかわからず、まだ若かった私は、挨拶ぐらいしかできなかった。

でも、そのお母さんは、ときどき娘に声を掛けてくれた。うちのベットの方までわざわざ来てくれて、娘をあやしてくれた。その男の子のベッドの足元には、「大きなウルトラマンの人形」があった。男の子ばかりの病室に、紅一点の女の子だった娘を、ウルトラマンのそばまで抱っこで連れていき、見せてくれた。

私にとって、この入院生活は「期間限定の非日常」だったけれど、そのお母さんにとっては、先の見えない現実であり、日常なのだ。

でもそれは、私の一方的な、勝手な見解に過ぎないと、病室で過ごすうちに思った。

なぜなら、そのお母さんは、医療器具につながれて生きている息子を、本当に可愛がっていたからだ。体調を心配し、世話をやき、語りかける。「息子が可愛いく、大切なのだ」と、そのお母さんから伝わってくる。

トルストイの寓話に「人は、何で生きるのか」というお話がある。「なぜ」とか「どうやって」ではなく「何で」という「一つの答え」をハッキリ求める問いに、トルストイは「人は、人で生きる」という「答え」をストーリーの中で示している。

このお母さんの姿は、「人は、本当に人で生きている」ということを証明していた。

末娘の入院は、子育て真っただ中での出来事で、親として手探りの頃だったから、このお母さんの姿と、それを支えているお父さんの姿は、神々しく見えた。(今でもそう思っている)

家族は、どこか「プロジェクトチーム」のようだけれど、「仕事」のそれとは全く違う。特に「子育て」に、「コンセプト」や「スケジューリング」は、通用しない。見返りも無い。それでも親は、親をやる。

子どもの入院は、この時だけだった。

「親の不注意」から起こったこの出来事は、私の人生の中で貴重な経験となった。この短い「入院でみた風景」は、子育て中だった私に、多くの気づきと反省をくれたのだ。

家族も、友達もいない病室のベットの上で、ひとり寂しく「漢字ドリル」をやっていたあの男の子の姿や、医療器具につながれた息子の世話をしていたあのお母さんの姿を、私は今でも思い出す。

「画びょう」を飲み込んだ末娘は、お陰様でその後、すくすく育ち、今年30歳になった。本人は、この時の記憶は全くない。

成長した我が子が、「日々、無事に過ごせている事」を良しと思おう。この出来事を思い出す度に、そう思う私なのだ。(おしまい)


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