「父」と「聖橋」と「おにぎり」からの私という「存在」
父が、現在の「お茶の水」にある「聖橋」のところで、飲まず食わずで一日歩いて、動けなくなり、座りこんでいたら、「通りすがりの人」から、「おにぎり」を貰って、生き延びたという話を、生前よくしていた。
父は、「おにぎり」という「言い方」はしない。
「にぎりめし」という「言い方」だ。
この時の「にぎりめし」の味は、忘れられない~と、何度か、私に話した。
私の父は、1945年3月、東京を「焼け野原」と化した「東京大空襲」の生き残りだった。
この空襲の時、当時、8歳だった父の弟(私の叔父)は、迷子になった。
空襲から数日後、焼けた自宅跡に行くと、「貼り紙」があった。
そこに、弟の名前と「この子を預かっています」の「伝言」と伴に、現在の「東京都板橋区」の住所が書いてあった。
父の一周忌の時、叔父が、この時の話をしていた。
知らない「おじさん」に連れていかれ、その家の前に着くと、立派な「表札」があって、そこに書いてあった「家主の名前」を今でも、ハッキリ憶えている
伯父は、そう話していた。
父と弟は、16歳の年の差がある。
この時、父は24歳だ。
父は、弟を迎えに行くため、その住所に向った。
空襲で焼かれた「父の家」があった地域は、墨田川沿いの現在では「スカイツリー」が、そびえている辺り。
そこから、空襲の後、交通はマヒしていたから、「徒歩」で、「板橋」まで父は向かった。
この「2つの話」を私は、別々に聞いていた。だから、弟を迎えに行った時「聖橋」で動けなくなったのか、別のタイミングだったのか、生前の父に確認することは、とうとう出来なかった。
でも、父が、「スカイツリー」の辺りから、「板橋」に向かったことを考えると、ルート的に「お茶の水」を通ることは考えられる。
空襲後の混乱した中で、「橋」で座り込み、そのまま動けなくて、人が亡くなっても、不思議ではない。
「見ず知らずの人」が、父に手渡してくれた「にぎりめし」で、父の命は繋がった。
「焼夷弾」が雨のように降ってくる中、墨田川にオーバーを着たまま飛び込み、たまたま流れてきた「布団」があって、それを川の水で、しっかり湿らせ、一晩中、水に漬かりながら、その「布団」をかぶっていて、助かったと、父は、何度も話していた。
その「布団」が無かったら、「父」は命を失っていたかもしれない。
あの時、「聖橋」で、「見ず知らずの人」に「にぎりめし」を手渡されなかったら、「父」は息絶えていたかもしれない。
いろんな偶然があって、「父」は命を繋いだ。
そして、その先に、「私」がいる。
その時々の「たまたま」に、繋がれて「私」が存在している。
自分が「存在」することは、ひとつの「奇跡」なのだと、思わずにはいられない。
本当にたま~に、「丸ノ内線」で「お茶の水駅」を通る時、いつも「聖橋」を見上げ、その度に「父」から自分へ命が繋がった「場所」を想う。