「未来」から読む「母の戦争体験記」~「疎開」することを決めた時のこと
母の「戦争体験記」を読むと、家族(父・母・姉と母)で、東京を離れ、義姉のいる「長野県・上田」に「疎開」することを決断する場面がある。
この時、2回目の空襲で、布団も、炊事道具も、殆どの生活道具を失い、食糧の配給も無く、水だけで、過ごしていた。
東京・中野に疎開するという近所の方から、「一緒に来ませんか」とのお誘いを断り、母の家族は、上野から汽車に乗り、疎開先を目指した。
「終戦」の2か月前、昭和20年6月のことだ。
それまでの、アメリカB29からの「空襲」の中、過ごしていた生活を思うと、東京で、頑張ることに限界を感じたのは、良く分かる。
最近、母に、この時のことを、聞いてみた。
すると、母は、
「このまま東京に残っても、学校の授業は無いし、
「勤労動員」で、岡田電池の工場に行かないといけないでしょ~
だったら、疎開すれば、また学校に通えて、
勉強する機会が、あるかな~って思ったら、
私は、疎開したかったの」
こう話した。
へ~ぇ、そんなふうに思ったんだ。
当時16歳だった母が「疎開したい」と、思っていたことを、私は初めて知った。
母は、確かに疎開先で、学校に通えるようにはなるが、「県立」の「高等女学校」には、空きがなかった。
疎開者が増え、急遽「市立」の「実科高等女学校」だった学校が、「高等女学校」となり、その学校に、母は通った。
学校で使う「教科書・文房具」を、東京で、全て焼失していた。
疎開先でも、品物が無く、辛うじて「鉛筆」だけは入手できたものの、ノート類は、手に入らず、「裏紙」をノート替わりにして、学校に通った。
当時、女子教育の先端だった「都立第六高等女学校」との格差はあれど、「空襲」と「勤労動員」が無く、ホッとしたと話した。
「未来」にいる私からすると、
戦争は、2か月後には、終わるんだよ~
「未来」から、母の「戦争体験記」を読むと、そんな気持ちになる。
だったら、あと少し、東京で頑張って「生き延びる道」を執れば、「勤労動員」も無くなって、学校に戻れたのに、と思ってしまう。
外地に配属されなかった、母の「一番上の兄」は、終戦後、1週間で戻ってくるんだよ…
母の家族だって、後2か月で、戦争が「終わる」ことが分かっていたら、違う決断ができたかもしれない。
でも、「未来」は見えない。
今、その時の状況下で、先のことを決断するしかない。
それは、どの「時代」でも同じだ。
令和の世に生きている私も、
「未来」に何があるのか分からず、
この先を見据えながら、
あ~でもない~、
こ~でもない~と思考しているのだ。
終戦後の「母の人生」が、それなりに「幸せ」だと、「未来にいる私」は、知っているから、母の悲惨な「戦争体験」を、私は、冷静に洞察できるのだ。
95歳の母に、あと何年、人生が残されているのか分からないけれど、
これまでの「人生」を振り返る「母の時間」に、
私は、付き合おうと思っている。
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