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「未来」から読む「母の戦争体験記」~「疎開」することを決めた時のこと

母の「戦争体験記」を読むと、家族(父・母・姉と母)で、東京を離れ、義姉のいる「長野県・上田」に「疎開」することを決断する場面がある。

この時、2回目の空襲で、布団も、炊事道具も、殆どの生活道具を失い、食糧の配給も無く、水だけで、過ごしていた。

東京・中野に疎開するという近所の方から、「一緒に来ませんか」とのお誘いを断り、母の家族は、上野から汽車に乗り、疎開先を目指した。


「終戦」の2か月前、昭和20年6月のことだ。


それまでの、アメリカB29からの「空襲」の中、過ごしていた生活を思うと、東京で、頑張ることに限界を感じたのは、良く分かる。

1945年5月23日の空襲で、2度目の被災をし、避難所生活は、「布団」は無く、「炊事道具」も無く、食糧の「配給」も受けられず、水道の水だけが、チョロチョロと流れ落ちている状況でした。
避難所は、近くの小学校ではなく、少し遠い「南桜小学校」(東京都港区新橋:現「南桜公園」)に行きました。
ここには、顔見知りの人もいて、以前住んでいた家の近所の人達と一緒になりました。
この戦争は、いつまで続くのか、また、どこで戦っているのかもわからない出征した「兄たち」の話も出ましたが、もし戦死すれば、区役所から通達は来るだろうと、そんな話をしました。

「南桜小学校」で避難生活をしていると、6月になってしまいました。
(中略)
水だけは、水道から出ていたので、助かったのだと思います。

私はこの時、2度も「空襲」に遭い、家財を殆ど失った「父の心中」を察するに、余りあるものがありました。
これまでの「父の人生」を思うと、「苦労の連続だった」という気持ちが、私の中に込み上げました。

父は、「活版印刷所」として独立し「これから」という時に、大正12年の「関東大震災」に遭い、家を失いました。
そこから、また一からやり直し、ここまでやって来て、個人経営の小さな「家業」とはいえ、神田の出版社との仕事も順調になって、息子3人を立派に育て、老後は、息子に家業を譲る事を考えていた、その矢先、今度は、「戦争」で、全てを失いました。
これからどうなるのか、父にとっては、検討も尽きませんでした。


最近、母に、この時のことを、聞いてみた。

すると、母は、

「このまま東京に残っても、学校の授業は無いし、

「勤労動員」で、岡田電池の工場に行かないといけないでしょ~

だったら、疎開すれば、また学校に通えて、

勉強する機会が、あるかな~って思ったら、

私は、疎開したかったの」

こう話した。

へ~ぇ、そんなふうに思ったんだ。

当時16歳だった母が「疎開したい」と、思っていたことを、私は初めて知った。

母は、確かに疎開先で、学校に通えるようにはなるが、「県立」の「高等女学校」には、空きがなかった。
疎開者が増え、急遽「市立」の「実科高等女学校」だった学校が、「高等女学校」となり、その学校に、母は通った。


学校で使う「教科書・文房具」を、東京で、全て焼失していた。

疎開先でも、品物が無く、辛うじて「鉛筆」だけは入手できたものの、ノート類は、手に入らず、「裏紙」をノート替わりにして、学校に通った。

当時、女子教育の先端だった「都立第六高等女学校」との格差はあれど、「空襲」と「勤労動員」が無く、ホッとしたと話した。

「未来」にいる私からすると、

戦争は、2か月後には、終わるんだよ~

「未来」から、母の「戦争体験記」を読むと、そんな気持ちになる。


だったら、あと少し、東京で頑張って「生き延びる道」を執れば、「勤労動員」も無くなって、学校に戻れたのに、と思ってしまう。

外地に配属されなかった、母の「一番上の兄」は、終戦後、1週間で戻ってくるんだよ…

母の家族だって、後2か月で、戦争が「終わる」ことが分かっていたら、違う決断ができたかもしれない。

でも、「未来」は見えない。

今、その時の状況下で、先のことを決断するしかない。
それは、どの「時代」でも同じだ。

令和の世に生きている私も、
「未来」に何があるのか分からず、
この先を見据えながら、
あ~でもない~、
こ~でもない~と思考しているのだ。

終戦後の「母の人生」が、それなりに「幸せ」だと、「未来にいる私」は、知っているから、母の悲惨な「戦争体験」を、私は、冷静に洞察できるのだ。

95歳の母に、あと何年、人生が残されているのか分からないけれど、
これまでの「人生」を振り返る「母の時間」に、
私は、付き合おうと思っている。


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