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からだもこころもつながっている。

 11月も終えようとするところだけれど、振り返ると軽く細胞が入れ替わったような気持ちになるくらいの日々でした。
 40度近い発熱が3−4日続いて、食べられず、身体中が痛くて寝ているのも辛い(コロナではなかったんですが)。苦しいので長く眠れず、1時間ほどで目が覚めてしまう。ほぼ水分とみかんを摂取して、人や世の中とも隔絶した日々。熱もすっきり下がるという感じでもなく、じわりじわりと下がっていく様子に不安にもなったり。食べていないこともあるのか、欲全般に希薄になり、見える世界も淡い色になっていくような、透明感を増していくような感覚。何ともつながっていない隔絶感。世の無常感、こうして人は孤独にこの世を去るのだろうかといった想像。一番思い起こしたのは「咳をしても一人」(尾崎放哉)という句。
 この期間に感じた世界は私にとても強い影響を残し、人の悲哀のようなもの、根源的な孤独感といった感情で揺さぶられ、今もその余韻の中にいます。寝込んでいる間、どうしてもコンビニに行かねば飲むものがなくなり、けれど車のように大きな音の出るものを動かすのがしんどくて、ゆっくりゆっくり歩いたことがありました。季節は晩秋。樹木が黄金色の葉を落とし、カラカラと風に吹かれていく音がします。光に照らされた色とりどりの葉たちの美しさ。風が葉たちを踊らせ、そのエネルギーがこんなに弱った私にも届き、「ああ、なんて綺麗なのだろう。美しいなぁ」と微かな希望を覚えたことが心に残っています。
 絶食が1日1食になり、1.5食になり、2食になり。少しずつ元気になるに従って、自分のなかにちからの灯火のようなものが微かに感じられるようになり、その灯火は少しずつ大きくなっていきました。今はまだ半分くらいのような気がしますが、灯火の灯りを大事にして、無理に灯りを消耗しないようにと気をつけています。
 昨日、私のかかりつけ医である鍼灸の先生のところ伺いました。ちょうど病み上がりだったこともあり、先生が先日Twitterに書いておられたこと(症状を消して全て抑えてしまうと腹のうちに我が残る、腹のうちの我をなんとかすること)の我とはどういうことですかと尋ねてみました。症状もその人のからだがバランスをとるために必要と考えて出しているもの。自分が抱え込んでいる何かを手放して、我が変わっていくことでからだも変化していくものなのかなと思いますよと話をしてくださいました。からだはわかっていてくれるから、もっともっと、もっとこうならなくちゃと抱えこまずともなるようになるんじゃないかな、大丈夫だよとも。東洋医学が昔から培ってきた知恵には生きるのにとても役立つことがたくさんあって、お散歩して自然からエネルギーをもらったり、旬のものをいただいて体を整えたり、昔から言われるそういうことを取り入れていくことで助けをもらえたりもしますからね、とも話してくださいました。
 あけて今日、定期的に受けているSVの時間がありました。この11月の自分に起こったこと、感じたことを言葉にしているうちに、とても深い深いところから涙が出てきました。自分であることの悲哀とよろこび。今回のこの体験は、焦らずにゆっくりと向き合っていきたいと思っています。こうして言葉にできる場所がある、言葉を受けとめてもらえる場所があることで、その自分を認めて歩いていけるんだな、その場所があることが大切なんだなということをふと振り返りながら感じています。

※写真は、奈良にある「くるみの木」の入り口で迎えてくれた洋梨の樹です。まるまるしていて美味しそうでした。くるみの木のごはんも季節のもの、土地のものを意識して手をかけて作られていて、それはそれは滋味あふれ、からだがいきいきするごはんですね。

くるみの木


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