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積みかさね、めぐり、もどり、たゆたう。時間という生きもの。
冬至をこえて、ここから少しずつ陽の時間が長くなっていきます。冬至は陰の極まり、だからこそ陽へのエネルギーへの分岐点でもあります。占星術では、冬至は山羊座のはじまりでもあるので、山羊座でしかも山羊座に天体が集中している私としては、何かが高まっていくような気持ちになったり、出来事もあったりします。
昨日は、日本ソーシャルワークリーグ主催の「ハワイのWELL-beingの定義から 日本のWELL-beingについて考える」というイベントに参加しました。ハワイパシフィック大学のヴィンスさんが日本にいらしてくださったタイミングでの開催で、ハワイの文化をベースにしたWELL-beingの軸、要素についてのレクチャー、その軸から翻って日本におけるWELL-beingってなんだろうということについてのワークショップです。
ハワイもさまざまな歴史的、文化的なプロセスを経て、今のコミュニティを形成している、というお話がありました。それは厳しい歴史も含めて。「脱植民地思考(Decolonization)」というスタンスの紹介もあり、植民地化されたことからの影響から見直していこう、もう一度自分たちの言葉にし直し取り戻しその土地土地に根付いた習慣、文化をもう一度振り返り、実践の中に入れていこうというメッセージを持ち帰りました。
参加するにあたり、わたしも2週間くらいの間、日本というか、まず自分におけるWELL-beingってなんだろうということをつらつら考えていました。そのプロセスで特に学生時代に向き合っていた、自分にとって確かに感じられること、リアリティがもてる世界との向き合い方、窓(パースペクティブということなのかも)について振り返り、もう一度ここに立ち戻ってみる必要があるように感じました。
今、わたしはソーシャルワーカーとして働いていますが、もっとそのおおもとは、福祉という概念が生じるもっと手前、そもそもの人間存在について “Yes” と言いたい、言えるパースペクティブを見つけたいという強い思いがあることを思い出しました。学生の頃は、本当にこの問いに取り憑かれていて、多分この問いは自分の存在に対しての ”Yes” でもあるのですが、Yesという希望につながる答えを探して、大学の図書館の地下1階に篭り、むさぼるように手当たり次第(といっても文化系ばかりですが)本を読んでいました。今思えば、資本主義や具体的に役に立つことが求められる(ように感じていた)社会を前にして、こんな自分が大海で生きる意味を見つけていけるのだろうかという、恐れや怖さ、儚さからくる問いだったように思います。その時のわたしは感覚もとても研ぎ澄まされていて、深い湖の底にいるからこそ感じられる光の美しさ、風に泳ぐ木々や葉のうつろい、終わりなくめぐる自然や宇宙のサイクルの中に在ることそのものにわたしが在る意味もあるのだと、とてもとても深いところで確信をしたように思います。突き抜けるそのきっかけになったのは、聖書の冒頭にある「はじめに言葉(ロゴス)ありき」という言葉でした。今も忘れない、錦糸町のホームで電車を待っている時に、雷が落ちたような衝撃と理解が波のように自分をさらっていったことを覚えています。
この2週間さまざま思い返す中で、ここ10年ほどは、この問いへの営みを重ねる自分から離れていた、そこから切り離して枠組の中で働いてきたんだなとも感じています。今も役割やペルソナから離れた時は、この問いを生きる自分自身に戻ります。その時空では、人、事物、あらゆる生きとし生けるものが「在る」ことの意味を美しさを持って立ち現れます。そしてその視座が生まれたプロセスには、東洋思想や日本文化をベースにした考えに多く影響を受けてきました。
ある意味の自分のルーツを辿らせてもらった時間。そして、今回のイベントに参加して、あらためて、日本という歴史、文化を踏まえてのWELL-beingやソーシャルワークを見つけていく、読み替えていく必要を強く感じています。
わたしからわたしたちへ。この景色を少しずつ人びとと。
そのための時間を増やしていきたい、そんな思いにつながる、ギフトに満ちたクリスマスとなりました。
裕子さん、ヴィンスさん、集い共につながった皆さんに感謝を。
※写真は、冬の時間、春に向けて移ろう時間を楽しみたいと思いはじめた、ヒヤシンスの水耕栽培です。庭の木々でも早いものは春に向けてもう芽を膨らませているものもあり。染色家 志村ふくみさんが、桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると桜の花のような、上気したようなえもいわれぬ色が取り出せると話されていたエピソードを思い出します。わたしたちは自然からははみ出ている存在ではあれど、少し自然の一部、と考えると、そんな多層的な時間を生きているのだなと感じます。