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コーラ・・・「『わたし』という現象をめぐる考察ノート」用語集⑥

1.コーラに関する身体論的理解

 ブルガリア出身の言語学者・精神分析家であるジュリア・クリステヴァ(1941-)は、プラトンの「ティマイオス」で語られたコーラという概念を独自に展開し、言語化以前の身体的経験を理解する新しい視座を提供しました。クリステヴァによるコーラ概念の再解釈は、現代の言語理論と精神分析学に大きな影響を与えています(私はわりと…どちらにも触れずに話を進めたいな、と思っていますが…)。

 まず、コーラの基本的な性質について説明します。クリステヴァによれば、コーラとは「まだ明確な輪郭を持たない流動性であり、律動的な空間」として定義されます。これはものごとの意味が成立する過程に先立つものであり、まだ記号化・表象化されていない意味未分化な空間を指します。また、それが流動的・律動的に運動していることを示しています。私たちが言葉で表現する前の、身体的な律動や運動性のことを指しているのです。

 コーラに関するクリステヴァの次の複雑な定義は、コーラが持つ独特の性質を表現しています。

「激しく変化しながらも枠をはめられている動性のなかで、欲動とその鬱滞から形成される表現的ではない全体性」

 「激しく変化しながらも枠をはめられている動性」という部分は、コーラが持つ二重の性質を表しています。それは完全な無意味でも完全に措定された意味でもなく、構造の枠内で規定されながらも、なおかつ流動的に運動する性質を持っているということです。

 「欲動とその鬱滞」については、身体的・情動的に蓄積された前言語的なエネルギーとしての欲動が、運動と停滞という二つの状態を往還していることを指しています。この欲動は、リズムや声調、身振りといった身体的な律動として表れます。

 「表現的ではない全体性」という部分は、まだ意味や記号として表象される以前の状態、つまり前象徴的な全体であることを指しています。これは単なる個人的な体験でも理論的な仮説でもなく、間身体性のひとつの様態として知覚可能であることを示しています。

 また、コーラは身体性に根差した性質を持っています。コーラは個人的な体験や様態としてではなく、間身体的な体験として経験されるものとされています。つまり、コーラは自己と他者、内部と外部の明確な区別が存在しない段階であり、身体が周囲の環境と融合した状態として理解されるのです。

 このような特徴を持つコーラは、単に意味が未分化なカタマリであるだけではなく、欲動の入れ物として機能します。これは、私たちの身体的な経験や感覚が、どのように言語化され、意味を持つようになっていくのかを理解する上で重要な視点を提供しています。

 このようなコーラの身体的特性を理解した上で、次に重要になるのが意味生成のプロセスにおけるコーラの役割です。コーラは単なる前言語的な状態ではなく、意味が生まれる過程において積極的な機能を果たしています。

2.意味生成のプロセス

 このような複雑な性質を持つコーラは、「意味として停滞すること」と「表現されることへの抵抗として流動すること」という二つの側面を同時に持ち合わせています。これは、意味の生成過程における根源的な緊張関係を示していると言えるでしょう。

 クリステヴァは、コーラが意味づけられ、表象化されることについて、「サンボリク」と「セミオティック」という二つの概念を用いて説明しています。

 サンボリクは、私たちの日常生活で使う言葉や意味づけの仕組みだと考えてください。例えば、「これは机です」「あれは椅子です」というように、物事に名前をつけ、意味を与え、世界を理解可能なものにする働きです[1]。これによって私たちは社会で共通の理解を持つことができ、コミュニケーションが可能になります。

 一方、セミオティックは、そうした固定された意味や言葉の体系に揺さぶりをかける力です。例えば、詩的な表現や芸術表現のように、通常の言葉の使い方や意味づけからはみ出すような表現方法を指します。これは単なる否定ではなく、固まった意味に新しい生命力を吹き込むような働きを持っています。

 サンボリクとセミオティックの関係は、例えば次のような場面で理解できます。会議室での発言では、明確な言葉で意見を伝えることが求められます(サンボリック)。一方で、その場の雰囲気や話者の声の調子、身振りなどが、言葉の意味に微妙な陰影を与えています(セミオティック)。この二つの次元は常に共存しており、相互に影響し合っているのです。

 これら二つの力は常に関係し合っています。サンボリックが世界に安定した意味を与え、構造を作り出す一方で、セミオティックはその固定された意味に新しい可能性を開いていくのです。このバランスによって、私たちの言語や表現は生き生きとした力を保ち続けることができるのです。

 ここまで見てきたコーラにおける意味生成のプロセスは、実は私たちの日常的な身体的相互作用の中にも見出すことができます。それは間身体性という観点から、より具体的に理解することができます。

3.間身体性の様態として

 本文では、コーラをミニマルな次元での相互作用と結びつけて展開しました。

 コーラと間身体性の関係は、複数の層が絡み合いながら展開する豊かな現象として理解することができます。もっとも基底的な層では、心拍や呼吸のリズム、体温の変化、筋緊張の変動といった前意識的な共鳴が生じています。これらの身体的な共鳴は、私たちが意識的に制御する以前に、すでに他者との間で共有されている相互作用の基盤となっています。

 この前意識的な共鳴の上に、より動的な情動的共有の層が形成されます。そこでは感情の伝染や雰囲気の共有、身体的な共感といった現象が生起します。例えば、他者の表情や身振りに自然と同調してしまったり、場の空気を身体的に感じ取ったりする経験は、まさにこの層での相互作用を示しています。

 さらにこれらの身体的な共鳴と情動的な共有は、やがて意味生成への移行の層へと展開していきます。共有された身体感覚は次第に言語化され、暗黙の了解は明示的な理解へと変容し、個別の経験は間身体的な意味として結実していきます。ここで重要なのは、これらの層が段階的な発展として捉えられるのではなく、相互に浸透し合い、影響を与え合う関係にあるという点です。

たとえば即興的な音楽演奏やダンスの場面では、これらすべての層が同時に作用しています。演者たちは呼吸や身体の動きを無意識的に同調させながら(前意識的な共鳴)、お互いの感情や意図を身体的に感じ取り(情動的共有)、そこから新たな表現や意味を生み出していく(意味生成)のです。

 このようなコーラと間身体性の重層的な関係は、私たちの日常的なコミュニケーションの基盤にも存在しています。言葉を交わす以前の身体的な次元で、すでに私たちは他者と深く結びついているのです。この視点は、現代社会における対面的なコミュニケーションの重要性を改めて示唆するものと言えるでしょう。

 コーラはしばしば「母性的なもの」として語られます。母体内の胎児の経験に近いものであり、リズム、音、光、色、触覚など、まだ意味として組織化されていない身体的な感覚の総体なのです。クリステヴァ自身、フロイトやラカンを引用しつつ、乳児と母親のいまだ未分化な関係になぞらえています。これを未分化なままの母子のあいだにある、ミニマルなコミュニケーションと呼ぶことも可能なのではないでしょうか。
 他にもペットとのふれあいや、性愛の場面などもコーラ的な相互作用であるように思えます。

 あるいは、例えば心理療法やカウンセリングの場面についても、コーラは重要な示唆を与えてくれます。クライアントの言語化される以前の身体的な表現や、治療者との間で生まれる間身体的な共鳴を理解する上で、コーラの概念は有効な理論的枠組みとなり得ます。
 
 コーラは意味の母胎として、意味が分化されていない状態であると同時に、意味の生成プロセスでもあります。カウンセリングを含めた言語的コミュニケーションにおいても、この意味生成のプロセスを理解することは極めて重要です。なぜなら、言葉として表現される以前の身体的な共鳴こそが、真のコミュニケーションの基盤となるからです。

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