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ミニマルセルフと身体図式・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート②

0. はじめに

 前回の投稿では、年々変動性を増す現代社会の中で、アイデンティティを形成すること、さらにそれを理論的にとらえることの難しさから議論を始めた。そして、脳科学・認知科学などにより測定が可能な「自己」の形式としてショーン・ギャラガーのミニマルセルフ概念を概観した。さらに、その基本的な3つの特性として、前反省的意識、自己所有感、行為主体感の三つと、それが可塑性を持つとはどういうことかという問いの端緒にたどり着いた。これらを踏まえ、本稿ではショーン・ギャラガーのミニマルセルフ概念をモーリス・メルロ=ポンティの身体図式との関連から検討していきたい。

1. メルロ=ポンティの身体図式とミニマルセルフ

 ギャラガーのミニマルセルフ概念は、フッサール以降の現象学を引き継ぐ形で形成されたものであった。その中でも最も多くの影響を与えているのは、モーリス・メルロ=ポンティであろう。ギャラガーによれば、身体図式とは身体の無意識的な、運動感覚的な側面を指し、意識的な身体イメージとは区別されるとする。ミニマルセルフが前反省的作用であり、また同時に自己所有感、自己主体感を伴うというのは、メルロ=ポンティの身体図式の考え方を踏襲したものと考えられる。

 メルロ=ポンティの初期の著作(「行動の構造」:1942⦅以下sc⦆から「知覚の現象学」:1945⦅以下pp⦆ごろ)において、身体図式とは、世界との相互作用を通じて形成される身体の暗黙の知識や能力のシステムであり、環境に対する身体の適応可能性を論ずる概念であった。

 「身体図式とは、私たちの身体が世界の中で取る姿勢についての総合的な意識であり、空間における私の〈姿勢的埋め込み〉の表現である」(sc, 129)

 メルロ=ポンティは、身体を単なる物体ではなく、「世界に対する姿勢」として、世界について感じ、思い、適応していく「意識」として位置づけた。そして身体は世界から切り離された存在ではなく、常に世界の中に投げ込まれた状態にあるものであるとした。
 そこでの知覚は、意識的な作用としてではなく、知覚された「刺激」に対する「反射」として、前反省的に身体の動きを通して世界への適応を図るという「総合的な意識」、いわばシステムなのだ。前反省的な次元で、わたしたちは世界と直接的に相互作用している。そのように<姿勢的埋め込み>がなされている。すなわち身体は世界と相互に影響し合い、世界を形作ると同時に世界によって形作られる存在なのだ。

 この世界との相互作用は、他者との関係性も含んでいる。世界と相互に影響しあうということは、そのとき他の身体との接点を持つことの可能性を示唆する。それを逆に言えば、「わたしの身体」は、他のだれかにとって「他の身体」なのだということになる。
 ここで重要となるのが「間身体性」の概念である。「わたし」と「だれか」は、共に「身体」という普遍妥当性を持つものに他ならない。他者の身体を見ることで、自己の身体の可能性を理解し、また他者の身体経験を共感的に理解する可能性が発生する。簡潔に定義すれば、間身体性はコミュニケーション一般についての基盤であり、同時に前反省的次元で私たちがコミュニケーションを取り得ることを説明するものであろう。

 このような間身体性の考え方に見られる「わたし」と「だれか」の相互性は、主観と客観の「両義性」というメルロ=ポンティの根本概念の一部の要素でもある。しかし、両義性についての説明を目的とするのであれば、実のところ、ここで他者を想定する必要は必ずしもないといえる。メルロ=ポンティが指摘したとおり、「私の身体は見るものであると同時に見られるものであり、触れるものであると同時に触れられるものである」(PP, 108)。
 ただしこれは、「二つの手は、互いに他に対して同時に触れられたものでもあれば触れるものでもある」というような二重感覚の問題ではなく、「二つの手がそれぞれ<触れるもの>と<触れられるもの>との機能のなかで交互に交代できるような、両義的な体制が問題なのである」(PP 109)。これはいわば、二つの機能が反転的に進行しているという存在論的問題である。

 身体における両義性とは、「身体がいつも私のもとに在り、いつも私にとってそこに在るということは、それがけっして本当には私の目の前にはないということ、私はそれを私の眼前で展開してみるわけにはゆかぬということ、それは私の一切の知覚の周縁にとどまっていること、それは私とともに在ること ――こうしたことを意味しているのだ」(pp106)。
 そしてメルロ=ポンティにとって身体は、複数の両義性を持つものである。身体とは「知覚するもの」であると同時に「知覚されるもの」であり、「構造化するもの」であると同時に「構造化されたもの」であり、さらに「個別的なもの」であると同時に「普遍的なもの」なのだ。
「交互に作用しあう化学的構成要素の塊としての身体が存在するし、生物と生物学的環境との弁証法としての身体があるし、社会的主体と集団との弁証法としての身体があるのであり、さらには、われわれの習慣でさえも、すべて各瞬間の私に感知されるとは限らない身体なのである」(SC227)

「両義性は私の存在の本質的な現象である。私は常に自然と意識、内在と超越、主観性と客観性の間にある」(PP, 402)。

 これらは、身体が世界と直接的に関わり意味を生成する存在であることを意味する。そこには以下の三つの重要な含意がある:

  1. 身体は常に「わたし」の意図と不可分であること

  2. 反復的な行動を通じた習慣を形成して世界にアクセスする、あるいは(それによって)世界への適応または変革的に再構造化するためのケイパビリティが担保されること

  3. 上記の二つの過程が前反省的な知識として主観的な世界を構成するということ

 身体図式は、知覚=評価=行動の一体化した図式なのだ。「刺激-反応の図式の中に、刺激の質料的〔物質的〕特質ではなく、状況の<形式的特性>、すなわち骨組みとなる空間的・時間的・数的・機能的諸関係を介在させ」る(SC112)。わたしたちはその一体性ゆえに世界と接触し、感情を持ち、自らの身体運動によって世界への適応ないし世界の変革を果たす。わたしたちに認識可能なものは、自らの身体を通して知覚されたものに他ならず、その意味で私たち自身の体験や身体図式とは不可分なものなのだ。身体のこれらの様相を、メルロ=ポンティは「生きられた身体」と表現した。
「生きられた身体は、生理学的な機構の総和ではなく、また心理的な表象でもない。それは意味を持った全体として世界に向かって存在する」(SC, 169)

 このような「生きられた身体」の概念は、「生きられた空間」という概念と密接に関連している。「生きられた身体の空間性は、位置の空間性ではなく、状況の空間性である」(PP, 116)。
 「生きられた空間」は客観的・幾何学的な空間ではなく、身体を通じて直接提示される空間であり、個人の知覚・感情・意味づけによって形成される主観的な空間である。つまり、たとえ同じ空間で同じ時間を過ごすとしても、「わたし」にとっての世界と「だれか」にとっての世界は(その相互性ゆえの等質性を示しつつも)全く別な「生」に満ちている。その点で、わたしたちが同じ社会構造の中で類似した経験をしたとしても、全く別の身体を構造化し、全く異なる空間として構造化されることが示唆される。

 そして、ここまで暗黙の裡に記述してきたように、「生きられた身体」と「生きられた空間」は、決して固定的な相関関係に陥ることなく、その時間に応じて即時的な関係性を描き続ける。その関係性の中に、身体の可塑性が見られるのだろう。そして身体が可塑的であるというとき、「生きられた身体」と「生きられた空間」の即時的な関係性ゆえに、空間…もっと言えば構造…もまた可塑的な性質を持つと言える。

 以上のように、メルロ=ポンティの身体、または身体を構成する身体図式の働きを概観した。これらは、メルロ=ポンティが身体を世界との関わりの中心に据え、認識や存在の基盤として捉え直すことで、彼の哲学を発展させていったことを意味する。これは彼を後の「『肉』の哲学」という豊饒な世界へといざなうものであったということになるが、ここではいったんおいておくことにしよう。

2. ミニマルセルフとナラティヴセルフの相互作用

 ここでは、メルロ=ポンティの身体図式の概念をギャラガーのミニマルセルフ・ナラティヴセルフと対比しつつ検討する。メルロ=ポンティは身体を前反省的意識として論述しつつも、決してナラティヴな身体の在り方を否定するものではなかった。
 語られた言語と語る言語とを峻別しつつ、むしろ、言語を(単なる記号ではなく)身体化な表現として捉え直す観点を示した。すなわち「語る言語」は知覚されるものであり、感情などの評価を呼び起こすものであり、同時に発話ないし記述という身体運動を引き起こすものである。つまり、言語は身体と世界をつなぐ形態のひとつなのだ。それは心身二元論が考えるように身体に外在するものではなく、身体の一部として既にそこにあるものなのである。

 メルロ=ポンティにおける身体図式が前反省的でありつつ「可塑的」であるということは、言語という表現形式によって身体が再構成されるダイナミズムを含意するものである。それと同様に、ギャラガーはミニマルセルフとナラティヴセルフが動的に相互作用し、それぞれに再構成されると見た。ギャラガーにとってもこれらは本質的に別のものであるわけではない。彼がこの二つを概念的に二つに区分したのは、科学研究の可能性を視野に含めた、いわば概念操作にすぎないものだろう。

 しかし、それがただの概念操作であるとしても、「わたし」という現象についての検討を加えるとき、極めて有用な区分であると考えられる。「わたし」が「わたし」を知覚するのは、まず第一にその前反省的な身体性にある。そして身体が変容していく、言い換えれば発達していく過程においては、例えば短距離走のタイムやボクシングのカウンターパンチの習得のような、一見純粋に前反省的な身体性の発達であっても、そこには言語の作用が多分に影響するものと考えられる。

 身体化され前反省的・即時的に身につけられた身体知あるいは暗黙知は、身体の両義性…それが知覚する基盤であり、知覚される対象であるという性質…によって、それが身体によって表象された瞬間、同時に本人にとって自覚されるものである。

 例えば短距離走において足を上げるタイミングや力の強さ、あるいは上体の角度など、タイムを向上させるためには、これらの体の動きを言語的に意識化することが不可欠なのだ。

 同様にボクシングのカウンターパンチであっても同様だ。相手のパンチをいかに知覚し、どのようなからだの動きでかわし、かわす動きとカウンターの動きをどうやって同期させるのか。自らの身体をナラティヴに把握することなく、これらの習得、改善をおこなうことはおよそ不可能であろう。

 このようなナラティヴな働きは、必然的に他者との関係性を含意する。それがナラティヴな働きであるということは、それが他者との間で共有される、ないしは共同で構築される性質のものであることを、当然に含意する。ここに他者性についての検討の必要性が見いだされるだろう(これについても別の項目で検討することとしたい)。身体が世界と両義的に相互作用をするということは、そのほとんどのケースで他の身体とナラティヴな交差が発生することを意味しているのだ。もしそれが、狭義の他者が存在しない場で行われるケースを想定するのだとすれば、より厳密に他者性について検討する必要を生むだろう。それはたとえば、レヴィナスのいうような「絶対的な他者」かもしれない。

 しかし、全ての身体の発達がナラティヴな働きを必要とするわけではない。身長や体重がそうであるように、ナラティヴな働きを全く必要としない身体の発達も存在する。あるいは前項で見たラバーハンド錯覚なども(異なる解釈が成立する可能性もおおいに認めるが)ナラティヴなプロセスを経ないミニマルセルフの可塑性の証明と考えることができる。


3. 結論と今後の課題

 そのいずれの場合であれ、身体が可塑性を持つことは明らかであるように思われる。ここで私は、あらためてブルデューのハビトゥス概念について問うことにしたい。身体論とハビトゥス論との関連については、2000年前後、N.クロスリーなど複数の論者が述べたところである。ここで論述したような身体の可塑性や、身体と世界の相互作用における両義性をブルデューが理解していなかったとは全く思わない。にもかかわらず、ブルデューは「いったんそれに目をつむった」のだろう。かれはハビトゥスが社会構造によって規定され、それを再生産していく性質をもつものであることを強調した。次稿では、それについて論考しつつ、ハビトゥス概念を再構成することとしたい。


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