ナラティヴに構成されるハビトゥス・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート⑤
0.はじめに
前回の投稿では、サッカーというゲームやジャズのプレイヤーという実践を対象とし、そこでのハビトゥスの移調可能性、すなわち身体の可塑性を、クリステヴァのコーラ概念を引用しつつ、ミニマルセルフとナラティヴセルフの交差する次元として検討した。
そこでは実践における時間構造のなかに現れる前反省的な身体運動が、「場」と実践の弁証法の中で、ハビトゥスによる創造的な移調として、あるいは前反省的な対話によって構築された予期せざる構造化作用として、可塑的な身体として世界を書き換えていく様子を見た。
本論では、この可塑性について、今度はナラティヴな次元での現象としてとらえることを試みていく。
1.ミニマルからナラティヴへ
ポール・リクールによれば、「人生の統一性は、散在する出来事を一つの物語にまとめ上げる総合の結果である」。また、「自己は、自分自身について語る物語を通じて自己を理解する」(『他者のような自己自身』)。
それを身体と呼ぶのであれ、ハビトゥスと呼ぶのであれ、それはその歴史的時間において、経験する事物を通して形成される。ただしこの歴史は、純然たる時間の流れ…そのようなものがあるとして…に応じて構造化されるものではなく、反省的な時間の流れ、物語的な時間の流れによるものなのであった。
メルロ=ポンティは、リクールに呼応するようにこう述べた。「時間は主観性の本質的な構造であり、主観性は時間そのものである」(PP, 483)。
そして「反省は時間的な構造を持つ。それは過去の経験を現在において照らし出す運動である」(PP, 278)。すなわち、反省は現在の時間に立脚し、その環境に応じた再解釈を行いつつ、歴史を再編成するプロセスである。ここまで何度か述べてきたとおり、ナラティヴセルフすなわち物語的自己は、このような時間構造に立脚している、
身体の体験は、コーラ的な…ミニマルな体験としての諸相において、その定義通り意味が生成する以前の母体として体感される。それは主観的な時間構成すなわち意味付けをされ、物語として構成されることによってはじめて意識化され、「現実」として相互作用の場に持ち出される可能性を持つ。
言い換えれば、世界は言語化されること、あるいはその可能性が認識されることによってはじめて、社会的現実として機能する。
社会的動物としての私たちにとって、極論すれば、リンゴがここにあるとしても、それはリンゴとして名付けられ、その名のもとに他者と認識を共有できるという実践感覚に支えられることで、はじめて存在する。名前という意味を付与される前の「リンゴ」は、コーラ的な知覚のレベルにおいては、「甘酸っぱいにおい」や「硬い手触り」のある「物体」にすぎないのだ。
現実がそのように形成されていると考える理論的な立場を「社会構成主義」という。
「わたし」という現象も、相互作用的実践をターゲットとして記述する場合、そのような現象と捉えざるを得ない。この観点からすれば、「わたし」は本質主義的な実体として存在するのではなく、社会的相互作用を通じて構築される動的なプロセスとして理解される。そして「わたし」は、「わたしという意味」を伴って行われる様々な相互行為を通して身体に把握されるものなのだ。
社会的相互作用は、必ずしも発話を伴うものだけではなく、前項で見たサッカーや音楽の演奏など、発話を伴わないものもある。そしてそのような相互作用においてもナラティヴセルフは成立する。しかしそれが持続性を持ち、一貫性を持った「わたし」という観念にいたり、間身体的に深く共有されていくためには、やはり発話を伴う相互作用が欠かせないと言えるだろう。
主として発話を通じて、「わたし」を共有し、その理解を深めていくプロセスの例を、ここから見ていくこととしよう。
2.家族、学校・・・発達とナラティヴ
身体の発達過程において、例えば乳幼児の段階から、「わたし」はナラティヴに構成されていく。乳児は、言葉を解するようになる以前から、例えば保護者から言葉で語りかけられる。「かわいい子ね」とか「ご飯食べましょうね」というように。この前者は「わたし」を意味付けていく過程である。
そして後者は「わたしは何をしている」ということを意味付ける、すなわちミニマルセルフとナラティブセルフの即時的な浸透の契機を得ることであるだろう。さらには「あなたは小さい頃からとても好奇心旺盛な子だったのよ」といった親からの語りかけは、子どもの物語的な自己理解の初期的な枠組みを提供するだろう。
このような乳幼児期の相互作用において、子供は身体として少しずつ経験を物語として構造化する方法を学習する。たとえば「昨日公園で遊んだね。ブランコが楽しかったでしょう?」というように。この場合、幼児は「公園でブランコに乗ったわたし」という経験を物語化するとともに、「楽しかった」という情動経験を物語化する経験をなすこととなる。あるいは、写真を見ながら親子の会話をすることも、時間的連続性を持った自己物語の構築を促進する。
ブルデューのハビトゥス概念によく示されている通り、これらの過程は社会的・文化的な文脈に沿って行われる。そこでは、しばしば社会的な権力関係あるいは象徴暴力が身体化される過程でもある。
「あなたが生まれた時の話」は、個人の存在の起源についての基本的な物語となる。祖父母から語られる家族の歴史は、より広い文脈における自己の位置づけを提供する。しかしそれは、社会的文脈のなかでその家族に押し付けられた象徴暴力の再生産プロセスを身体化することでもある。
生まれながらの性別や兄弟のなかの出生順。家庭の経済能力と、それに伴う文化資本。果ては民族や宗教まで。物語としてのナラティヴセルフには、このような象徴暴力が内在する。
同時にそれはハビトゥスが「構造化する構造」として、未来の「わたし」への展望を形成するものでもあると言える。例えば家族メンバーの経験から導かれる教訓は、行動指針としての物語となる。家族が困難を乗り越えた物語。それはその子が将来困難に立ち向かうとき、文字通り指針となるだろう。何より、家族からの「将来こうなってほしい」というような語りかけは、未来の「わたし」のイメージを直接的に形成するだろう。
このように、これらの多様な物語的実践を通じて、個人は家族的文脈における自己の位置づけを理解し、より広い社会的文脈における自己理解の基盤を形成していく。特に重要なのは、これらの物語が単なる過去の記述ではなく、現在の自己理解と将来の行動指針を提供する実践的な機能を持つという点にある。
これらの経験を核とし、乳幼児はやがて学校に参入していく。
そして学校教育の文脈では、より組織化された形でアイデンティティの物語的構築が促進される。多くの友人たちの間で、様々な相互行為を経験する。そこでは幅広い視点からの物語が交換され、その交換可能性によってナラティヴセルフは常に揺り動かされつつ、より強く大きな物語として構成されていく。
「あなたはこういう人だよね」という周囲からの言明や、パフォーマティヴに反復される「わたしの物語」の表明。さらには「作文」や「自己紹介」といった教育実践は、自己を一貫した物語として語る技能の習得機会となる。また、教師からのフィードバックや友人からの評価は、その物語の社会的妥当性を検証する機会を提供する。
ナラティヴセルフとは、個人が自己の人生経験を意味あるものとして解釈し、一貫した物語として構築する過程で形成される自己理解なのだ。それは、家族や学校の友人や教師、後には職場の仲間など、様々な人間関係の中で言葉にされ、そのような他者と交換、ないし共有しあうことによって成立する。「リンゴ」が名づけられ、意味を他者と共有する可能性によって「現実」となったように、ナラティヴセルフの成立には「他者」が不可欠なのだ。
3.キャリアコンサルティング
キャリアコンサルティングもまた、クライエントの立場から見たとき、キャリアコンサルタントという「他者」とのあいだで、「わたし」という「現実」を構成するものだということができる。
サビカスをはじめとするナラティヴアプローチ(※1)の立場をとるキャリアコンサルタントは、「わたし」という現象のうち、個人のキャリアもまた客観的に実在する実体ではなく、社会的相互作用を通じて構築される物語として理解する。これは「リキッドモダニティ」以降の変化の激しい社会、技術や環境が絶え間なく変化し続ける社会に対応するために、職業人生を通して「わたし」を更新し続ける必要のある社会に適応した考え方であろう。
キャリアコンサルティングの場における物語構築は、特徴的な相互作用過程として展開される。コンサルタントとクライエントの対話的空間において、(しばしばコーラ的次元にある)断片的な経験は、より一貫した物語として意味付けられ、再構築される。この過程では、クライエントの語りに対するコンサルタントの応答性が重要な役割を果たす。例えば、クライエントが「これまでの職歴には一貫性がない」と否定的に語る経験に対して、コンサルタントは「多様な経験を通じた学びの過程」という全く別の解釈を提示することができる。
職業的アイデンティティの物語構築において特徴的なのは、過去の経験の再解釈と未来への展望の統合である。サビカスの「5つの質問」(※2)として知られる、幼いころの思い出など、一見職業とは関係のない過去の体験をクライエントに質問し、その解釈としてキャリアコンサルタントの視点から見たクライエント像を提供する手法は、その典型的なものであろう。
キャリアの物語は単なる履歴の記述ではなく、過去・現在・未来を意味あるものとして結びつける解釈的実践なのだ。例えば、学生時代のアルバイト経験や課外活動が、現在の職業選択や将来のキャリア展望に新たな意味を持つものとして再解釈される。そしてそれは「将来の展望」として、クライエントが現在、または今後、様々な転機を迎えていくうえでの指針となるべく、キャリアコンサルタントによって構成される。
転機(トランジション)の経験は、キャリアの物語構築において特に重要な契機であろう。リストラや職場での困難など、既存の物語の修正を迫られる経験に直面した際、キャリアコンサルティングは新たな物語構築の場として機能する。ここで物語は、「構造化された構造」として転機を受容し、危機を乗り越えるための方策となる。
同時に物語は「構造化する構造」として、転機によって再編され、全く新しい「わたし」という物語として、クライエントの自画像を構成する。たとえば、ブリッジスの[終焉 - ニュートラルゾーン - 新たな始まり]というトランジション論(※3)は、物語がトランジションによって再構成されるということを、よく示すものであると言えるだろう。
これらの過程においてキャリアコンサルティングは、クライエントの自己概念としてのナラティヴセルフを、強くしなやかな、厚みを持った物語として構成するように進行する。激変し続ける社会の中でのサバイバルは、単に一貫した一筋の物語では、恐らく対処できない。そこで必要なのは、複線的な経験を統合し、いくつもの転機を乗り越えた(もしくは乗り越える)物語である。そしてそれは、全く予想もつかない未来の転機を乗り越える自己効力感である。同時に、それまでの体験や意味付けを深く掘り下げ、分厚く肉付けされた首尾一貫した物語である。
すなわち、少なくともリキッドモダニティ以降の時代において、ナラティブアプローチの立場に立つキャリアコンサルティングの目的とは、「構造化する構造」としてのハビトゥスを強化することであり、身体の可塑性を高めることなのだ。職業生活に限定する必要さえなく、環境―刺激系としての世界は、ほぼ間違いなく今後も激変し続ける。それに対する適応可能性を高めること(サビカスはこれをキャリア・アダプタビリティと呼ぶ)。それによって、クライエントが今後体験する転機に対してぶれない「わたし」であり続けること。
ナラティブに「わたし」を構成するということは、そのような強さとしなやかさをクライエントにもたらさなくてはならない。キャリアコンサルタントは、それを言葉と自らの態度で実現することを望み続けなければならない。
クライエント中心療法(※4)とは、そこで必要とされる態度そのものである。無条件の肯定的関心。クライエントの存在そのものへの深い信頼。それこそがクライエントの語りを生み出す。
そして共感的理解。クライエントの内的参照枠への深い理解を通じて、語られていない、もっと言えば本人に認識されることさえない経験の側面にも光を当てる。あるいは「他者」であるコンサルタントの共感的な応答そのものが、クライエントの自己理解を促進する鏡として機能する。
もちろん、このように受容し、共感するキャリアコンサルタント自身の「わたし」もまた、同様の強さとしなやかさが必要だろう。自己一致。クライエントの語りは、そのようなキャリアコンサルタントの「わたし」が提示されること、すなわちキャリアコンサルタントが「顔」を持つ「他者」として存在しはじめて、真摯な対話となり、より深い次元で進行するものとなる。
この意味で、ナラティヴアプローチのキャリアコンサルティングは、言葉のみの次元で展開されるものではない。それは、コーラ的な間身体性のレベルでの共鳴が不可欠なのだ。言葉のみの相互作用は存在しない。そこには常にミニマルな相互作用が介在する。このシリーズにおいてクリステヴァのコーラ概念を間身体性の様相として引用することには、そのことを示唆すること、あるいは身体におけるコーラの働きを展望することを目的としたものでもあるのだ。
さらに、キャリアコンサルティングにかかわる記述のなかで何度か「他者」「顔」という表現を導入した。それは。キャリアコンサルティングのプロセスにおいて、キャリアコンサルタントの「他者」という存在の仕方にも大きな意味があると考えるからである。
どちらにせよ、身体=ハビトゥスの持つ力、それが可塑的であり、未来のどのような転機にも対応できるよう準備させること。そのために、ナラティヴの働きを駆使して、コーラの次元で蓄積された体験を物語的自己として再編成すること。それが筆者のキャリアコンサルタントとしての目的である。
4.おわりに
今回の論考も長くなってしまったが、コーラや他者性について、すなわち間身体性の問題として、ナラティヴセルフの生成と流動的な発達の条件をキャリアコンサルティングのプロセスのなかに見出すところまで到達した。事項では、これらの間身体性に関する考察を進めていきたい。