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思考のスタートラインとしての「ミニマムセルフ」・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート①

1.はじめに

 「自分探し」という言葉が日本社会で広く使われ始めたのは、およそ1990年代初頭からだと考えられる。「わたし」が「わたし」であることは、本来であれば、あまりにも当たり前のことのはずだ。昔は、だからこそ「自分探し」なんて、全く必要のない行為だったのだろう。
 ちょうどそのころ、ティーンエージャーだった私は、確かに思春期特有の自己探索をしていた。しかし今と比べれば固定的だった(日本でいえば「一億総中流」と言われた)社会の中で、(今から思えば)それは一過性のものであり、それはある程度先見可能なものだったように思われる。

 2024年現在、社会は絶え間なく、大きな変動を繰り返している。技術の進歩やグローバル化、雇用の不安定性など、様々な要因がこの変動を引き起こしている。現代という文脈において、「あなたはどんな人ですか?」と聞かれて、すっと返事をすることができる人は、恐らく稀有なのだと思う。私自身、当時の自己概念と今のそれは、いくつかの断絶を含む変貌を遂げているように感じている(とはいえ、一周回って、ある程度戻ってきてもいるが)。

 現象学者をはじめとして、過去数多の哲学者たちは、アイデンティティの「自明性」そのものを問い直してきた。当たり前のことが「当たり前」に成立していることの謎。デカルトの「我思う故に我あり」しかり、それとは全く逆の論理を辿ったレヴィナスの他者論しかり。それが(本質的に不可思議なものであるにもかかわらず)、ほとんどの人にとって自明のことであったゆえに、それは逆説的に哲学的命題たり得たのだろう。しかし現代では、その自明性は失われた。

 フランスの社会学者、P.ブルデューは、そのハビトゥス概念を、【社会的に獲得された傾向や習慣の体系であり個人の行動を規定する枠組み】として、社会構造に規定された比較的固定的なものとして構想した。その記念碑的著作である「実践感覚」は、1980年にフランスで刊行されている。2024年現在、刊行からまだ半世紀も経過していないのだ。
 にもかかわらず、現代社会に生きる私たちが、そのような「固定的な社会構造」を経験することははたして可能なのだろうか?ハビトゥスあるいは身体が、文化的・経済的な構造に規定されるという性質を否定するつもりは全くない(むしろ、わたしたちが構造により、どのように規定されているかについて、別の章で詳しく検討する)。だが、絶え間ない変化にさらされる現代において、そもそも固定的に身体を構造化することが可能なのか?あるいは固定的に構造化された身体で、絶え間なく変化し続ける世界を感じ、世界に適応し続けることは可能なのか?

2.「わたし」に「なる」

 このような事態は、旧来のアイデンティティ論のほとんどすべてが、もはや効力を失っていることを示唆する。冒頭に見てきたとおり、わたしたちは「わたし」の自明性が失われた時代に生きている。ジクムンド・バウマンが「リキッドモダニティ」で詳述したとおり、わたしたちはそのような状況の中で「わたし」に「なる」ことを要請されている。

 これらの流れの中で、ショーン・ギャラガーによるミニマルセルフとナラティヴセルフという概念提起は、不確定性を深めていったアイデンティティをめぐる議論に、脳科学・認知科学などの自然科学との交差点を作り出したと言える。
 ナラティヴセルフとは、「あなたはどんな人ですか?」と聞かれたときに、その人が行うことのできる返事のことである。つまり、それは「わたし」というものについて、その人が感じている概念であり、知識である。それは言葉で表すことにより、周囲の誰かと共有されることを前提としたものだと言える。つまりそれは、「わたし」を言語で表象したものに他ならない。
 デカルトから考えてもおよそ500年。人文社会科学が扱ってきたものは、(少なくとも現象学誕生の以前までは)概ねナラティヴセルフの範疇であった。しかし、そのような言語のみをもって、「わたし」は「わたし」を語り得るのか?

3.ミニマルセルフ

 ミニマルセルフとは、そのような言葉に尽くすことのできない「わたし」のことである。それは世界を知覚する感覚器であり、それとの距離間を測る計測器である(ミニマルセルフとしての身体による計測結果を、例えば「感情」と呼ぶ)。また、そこで知覚したものに対し、その計測結果を指針として、「わたし」は言語的な思考を行うことなく、反応としての行動を行うことができる。
 それは、「わたし」という主語を伴わない、非概念的な自己感覚であると同時に、その行動単位となっている身体が自分のものであるという実感、その行動の主体が自分自身であるという実感を伴った自己感覚である。

 ミニマルセルフが非概念的な自己感覚であるというのは、それが前反省的意識であるということを示す。それは、「私は今、○○ということを経験している」という明示的な自己言及を伴わない暗黙的な自己感覚であり、その意味で「生の意識」であると言える。
 例えば、熱いものに触れたとき、わたしたちは反射的に手を引っ込める。あるいはドアノブに手を伸ばすとき、わたしたちはドアノブの位置や自分の腕の長さを意識的に計算する必要もなく、自然とそれに手で触れることができる。これらの事例は、私たちがこのような前反省的な意識作用を持つことの証となろう。

 また、この身体が自分のものであるという実感は、自己所有感という概念で示されている。先程の「熱いものに触れた」という事例でいえば、まさに「触れた」という感覚こそが自己所有感である。私の目や、耳、五感に何かが触れたということ。それを知覚しているということは、知覚の起点である場所が私の身体であることをわたしたちに自覚させるものに他ならない。自己所有感とは、そのような身体的・即時的な自己感覚が私たちに存在することを説明するものだ。

 そして、行動の主体が自分自身であるという実感は、行為主体感と定義されている。ドアノブを回すとき、回しているのは「わたし」なのだ。あるいは、ボールを投げるとき、投げているのは「わたし」なのだ。そのような「自分が何かを引き起こしている、何かを生み出している」という感覚。それもまたミニマムセルフの基本的な特性である。

4.「わたし」は流動し続ける

 もうひとつ。この時点で指摘しておきたいミニマルセルフの重要な特性は、それが可塑的であるということである。すなわち(ブルデューが考えていたように身体図式としてのハビトゥスが固定的な性質を示すという考え方に反して)、様々な「語り」に対応する、あるいは環境世界の変化に適応するなどのかたちで変動し続ける、いわば動的なシステムであるということである。わたしたちの「考え方」が変わるだけではない。わたしたちの身体そのものが変わっていくのだ。

 有名なラバーハンド錯覚は、この可塑性を示す興味深い例である。
 この実験では、参加者は目の前のテーブルに座り、自分の手は仕切りで隠される。ゴムの手は参加者の手と同じ位置に置かれる。そして、実験者は両方の手を同期してブラシでなでる。これを数分間続けると、多くの参加者がゴムの手を自分の手のように感じ始める。
 さらに興味深いのは、例えば実験者がゴムの手をブラシでなでるのではなく、針で突き刺すような動きをしたとき、参加者は自らの体が脅かされた時と同様の反応を示すことだ。これは身体所有感が、視覚的な情報のみによっても変化するものであることを示唆するものであることを示している。
 そしてこの変化は、脳画像研究などの脳科学的反応として計測可能である。それによれば、前頭頭頂ネットワーク、島皮質、前部帯状皮質などの脳領域がこの錯覚に関与しているという。ミニマルセルフの概念は、これまでナラティヴに検討する他なす術がなかった「わたし」について、このような科学的測定の可能性を与えたのだ。

5.おわりに

 以上の考察を踏まえ、ミニマルセルフの概念が現代社会における自己理解にどのような新たな視座を提供するかを検討してきた。この概念は、言語化できない自己感覚や身体的な自己認識を説明する上で非常に有用であり、従来のナラティヴセルフ中心の議論に新たな層を加えている。
 続く投稿では、このミニマルセルフについて、いったんメルロ=ポンティの身体図式に立ち戻って検討する。それがどのような要素をもって構成されており、どのように「可塑的」様相を帯びているのか。これらを中心に、引き続き検討していくこととしたい。


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