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ハビトゥスという身体図式・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート③

0.はじめに

 前回の投稿では、モーリス・メルロ=ポンティの身体論を中心として、「可塑性」という観点から、ショーン・ギャラガーのミニマルセルフ、ナラティヴセルフ概念とのかかわりを見てきた。
 それに対して、ピエール・ブルデューのハビトゥス概念は、現象学的身体論を引き継いだ概念であると考えられるものの、それは「比較的」固定的であり、可塑性をとらえることに難点のある概念となっていることを指摘した。
 本論では、ハビトゥス概念を批判的に継承しつつ、引き続き身体の可塑性を、わたしたちがどのように語り得るかを検討していきたい。

1.ハビトゥス

 ブルデューは、その初期の代表著である『実践感覚』(1980、今村仁訳 1988)において、ハビトゥスを次のように定義している。

「持続的で移調可能な性向のシステムであり、構造化する構造として機能する構造化された構造、すなわち実践と表象の産出・組織化の原理として機能する性向」(P83)

 複雑な定義であるが、まずはこれを丁寧に読み解いていくこととしたい。

 第一に「持続性」を持つことが指摘されている。これは、ハビトゥスがその場限りの知覚-刺激系としての性質をもつものではなく、時間の流れの中で長期的に身体化される性質のものであるということを示す。身体図式もまた時間の中で持続性をもつものであることから、これについては了解されやすいものと思われる。

 続いて「移調可能」である。個人的な解釈を含めて言えば、ここでの「移調」(つまり初期ブルデュー思想において)は、構造を変革に導くような、創造的な身体運動を意味するわけではなかったのだろう。確かにブルデューは、ハビトゥスが新しい状況や危機に直面したときに適応し、変化する可能性を示唆している。
 しかし「ハビトゥスとは、歴史的・社会的に状況づけられたハビトゥス生産の諸条件を限界として」「(制御を受けながらも)全く自由に生み出す無限の能力」(p87)とブルデューは言う。ハビトゥスは、特定の社会的・歴史的条件と関連付けられているため、完全な普遍的転用は不可能なのだ。
 また、ハビトゥスには、その持続性ゆえの慣性が存在する。農村出身者が都市に移住しても農村的な思考様式や行動パターンを保持する傾向があるように、一度形成されたハビトゥスは環境が変化しても容易には変化せず、むしろ変化に対する抵抗を示すとブルデューは言う。そして、これを「ヒステリシス効果」と呼んだ。
 このように、ブルデューにおいては「移調」の可能性は指摘されていたものの、むしろそれは身体に対する軛であり、「可能性はあるが実際は困難」というニュアンスが強いものであったように思われる。
 身体の可塑性に関する議論を目的とする私たちにとっては、この「移調」可能性は非常に重要な論点となるだろう。本稿の3において、詳述したい。

 「構造化する構造」と「構造化された構造」という部分も、ブルデュー初学者が必ず躓いてしまうポイントであろう(ここまでの論考で、私自身も使ってしまっているが…)。しかしブルデュー理論の全体にまたがる最重要項目だといえる。
 「構造化する構造」であるということは、身体論に引き付けて述べるとすれば、それが世界を知覚し、その運動によって世界を「現実」として構成していくものであることを示す。世界は、わたしたちの身体的運動によって構成されているのだ。わたしたちの一つ一つの実践が、わたしたちが「現実」として認識するものを作り出している。そしてわたしたちの知覚は、その「現実」に寄り添った理解をわたしたちに提供している。
 「構造化された構造である」ということは、その過程のひとつひとつが、あらかじめ社会的に規定されているということを示す。「ディスタンクシオン」(1979)をはじめとしたブルデューの一連の著作は、経済的・文化的に相関しあった規定性によって、ハビトゥスが構造化されていることを示すものであったといってもいいだろう。それは身体が、その発達段階において、経済的・文化的な制約のもとに経験をつみ、制約を含めた「構造」として経験が身体化されることによる。その意味でハビトゥスは、あくまで個別の身体において形成されるものでありながら、文化的・経済的に近似した環境である場合には、階層による一定の均質性を示すとした。
 ハビトゥスが「構造化する構造」であると同時に「構造化された構造」であるということは、ハビトゥスが『歴史の産物でありながら、歴史を生産する原理』として機能することを示す。つまり、ハビトゥスは社会構造を経験することにより構築されるものであり、その実践によって社会構造を再生産していくものだということである。

 なお、ブルデューはハビトゥスが無意識の産物である、すなわち前反省的な作用であることを次のように強調する。『ハビトゥスは、第二の天性のように機能する身体化された歴史』であり、『ハビトゥスの操作は、意識や意志の表出ではなく、実践感覚の産物である』のだ。
 「移調」の可能性に言及されてはいるものの、ブルデューがハビトゥスに、例えば階層などの「場」において、比較的固定的であり、均質性を帯びた性質があるとした理由は、ここにあるのだろう。ハビトゥスは、明示知の次元ではなく、暗黙知の次元であるのだ。そして、それはそもそも社会的な制約を含めて構造化されたものであり、同時にその実践においてその生成原理である構造を再生産する性質を持つのだ。
 
 これらにより、身体論を踏まえたわたしたちは、ハビトゥスについて次のように言うことができるだろう。「ハビトゥスとは、社会的な規定によって構造化された身体図式であり、したがって前反省的な次元で知覚=評価=行動の一体図式として、持続的に刻印されたものである、そしてその実践は身体の間主観性ゆえに、その生成原理たる構造を再生産する傾向を持つ」。


2.ハビトゥス論の目的と再検討

 このようなハビトゥス概念について、ニック・クロスリーは、著書「社会的身体」(2001)において「ブルデューのハビトゥス概念は、社会的実践の身体的次元を理解する上で重要な貢献をしている」としつつ、主に以下の3点で批判する。

「ハビトゥスは構造によって構造化されると同時に、構造化する構造でもある。しかし、ブルデューの理論的説明では、"構造化される"側面が強調され過ぎており、行為者の創造的・革新的な実践の可能性が十分に理論化されていない」

「ハビトゥスは実践感覚として説明されるが、その形成過程における行為者の反省的な関与が理論的に軽視されている。実際の身体的実践には、常に程度の差こそあれ、反省的な次元が含まれている」

「ハビトゥスは実践の中で形成され、維持される。この実践は本質的に相互行為的である。しかし、ブルデューは場の構造的効果を強調するあまり、具体的な相互行為の動態を十分に分析していない」

 すなわちクロスリーにとって、ブルデューにおいては①「構造化する構造」としてのハビトゥスはあまり検討されておらず、②反省的次元(ただし、それは必ずしもナラティヴな次元とは限らず、ミニマルな…前反省的な…次元のものも含まれる)が軽視されており、③「具体的な相互行為の動態」の次元が見落とされているということだ。総合的に言ってしまえば「生きられた身体」そのものの見落としといっても過言ではないのかもしれない。

 しかしながらクロスリーのいうとおり、ハビトゥス概念は「社会的実践の身体的次元を理解する上で重要」なのは間違いないのだ。わたしたちが、わたしたちによる人間理解として、ハビトゥス論から継承すべきなのは、以下の3点であると考える。

(1)身体図式は、個々の社会的制約すなわち「状況の空間性」に応じて、ハビトゥスとして世界から構造化されたものであるということ
(2)身体の知覚は、例えミニマルに(すなわち暗黙の即時的反応として)行われた場合であったとしても、社会性に規定されていること
(3)身体の運動は、社会構造を再生産する傾向にあること

 継承すべき点について端的に言うとするならば、身体は「社会」によってつくられ、また「社会」を構成していく、ということになるだろう。現代社会では、ブルデューの時代と比べて飛躍的に流動性を高めていることに留保しつつ(あるいはそれを新たなエビデンスとして活用しながら)、これらの検討を深めていく。

 そして、継承するにあたっての論点として、次の2点を中心として進めていきたい。

(4)ハビトゥスの「移調可能性」の再定義
(5)社会的「場」におけるナラティヴの可能性

 恐らくこれらこそが、「構造化する構造」としてのハビトゥスの性質を明らかにするものであり、反省的次元、具体的な相互作用のなかで発生しているものの記述のカギとなっていくことだろう。

3.「移調」と再生産

 ブルデューにおいてハビトゥスの「移調」とは、ハビトゥスを「特定の実践から抽出された一般化された図式」と見做したうえでたうえで「これが異なる領域の実践に適用される」場合を指すものであった。そして「ハビトゥスは歴史の産物であり、歴史によって絶えず変容される。しかし、この変容は緩慢で、ほとんど気づかれないものである」。すなわち「移調」は、ゆっくり「気づかれない」程度にのみ起こる。
 そして「ハビトゥスの移調可能性は、社会的再生産のメカニズムの一部として機能する。それは、ある領域で獲得された優位性を他の領域に転用することを可能にする」。つまりブルデューにおいて、再生産は「移調」に優先する。

 しかし、世界はもっと多様だ。ブルデュー自身も述べている通り、学校のハビトゥスをもってビジネスに適応することもできる。『実践感覚』(1980)の段階でも、新しい状況や危機に直面した際に、ハビトゥスが変容する可能性が言及されている。さらには『ディスタンクシオン』(1979)でも、世代間でハビトゥスが変化する可能性が示唆されている。

 唐突だが、ここで音楽を演奏する場面を想定することとしよう。1960年代のアメリカに、一人の優れたジャズミュージシャンがいたとする。彼は、生まれて初めてロック音楽を耳にした。そのときヒステリシス効果は発生しただろうか。彼は即座にロックのビートを導入して即興演奏…後に日本で「フュージョン」と呼ばれた音楽の原型…を行ったのではなかったか。
 あるいは、現代のクラシック音楽の作曲家が、例えばドラムンベースのビートに惹かれたとき、その創作にヒステリシス効果が発生するだろうか。現代音楽におけるドラムンベースの可能性を即座に追求するのではないだろうか。

 もちろんこれらの事例は(モデルはいるものの)極めて戯画的な表現だ。そして平凡なジャズ奏者は、初めて聞いたビートやコードの上で即興演奏をすることはできないだろうし、同様に平凡なクラシック作曲者もドラムンベースを消化できないだろう。
 このようなケースにおいて、ハビトゥスが「移調」に成功し、ハビトゥスそのものの変容、更新を果たす、すなわち構造を構造化したカギになったのは、端的にいえばその基盤となったハビトゥスのある種の「熟練度」ではないか?

 アメリカの社会学者リチャード・セネットは、このような「熟練度」について、単なる技術的熟練度とは異なるものとして、著書『クラフツマン』(2008)において「クラフトマンシップ」として概念化している。

 それは、まず第一に「物事をうまくやり遂げようとする衝動」なのだ。すなわち、技能そのものとして以上に、それを成し遂げたいという欲望として身体化される。そしてその欲望は、前反省的レベルでの「技術的な理解と表現力の融合」であり、その意味で第一には暗黙知である。これらは、セネットのいうクラフトマンシップが、ハビトゥス=身体図式として形成されるものであることを示唆する。

 優れた職人は材料の特性に対して高度な感受性を持つ。これは単なる知識ではなく、(木工職人が木目を読み取り、その強度や加工のしやすさを瞬時に判断するように)材料の触感、重さ、質感、反応などを直感的に理解する能力である。
 このとき、材料は常に理想的な形に従うわけではなく、しばしば予期せぬ反応、すなわち抵抗を示す。しかし名工は、この抵抗を単なる障害としてではなく、材料との対話の機会として捉え、対話を通じて、新しい可能性や創造的な解決策が生まれるとセネットは考えた。

 もちろんこの対話は、ほとんどの場合、ナラティヴなものではないだろう。それは材料の直接的な手触りであり、同時にそれを加工する自らの身体の運動である。セネットによれば、この対話は「手と頭の協調」である。
 しかしそれは、むしろ身体そのものに蓄積された知性というべきものだ。「手と頭の協調」といったとき、身体の運動がナラティヴに認識される状況が予期されるが、実際のところ、それは身体に刻印された実践感覚そのものであり、したがって暗黙知である。
 また、この対話は実践感覚として、動作の反復を通じて深まっていく。しかし、この反復は単なる機械的な繰り返しではなく、微妙な変化や改善を伴う「反復的探索」に他ならない。これによって名工は材料の新たな一面を発見して技能を磨く、すなわちハビトゥスを更新するのだ。対話は想像力と現実の橋渡しに他ならない。「物事をうまくやり遂げようとする衝動」に導かれて、反復こそが革新の源泉となる。

 ここでの「材料」は、決して物質的なものにとどまるわけではない。木工の名工にとっての「木」と同様に、優れた教師にとっての生徒もまた「材料」なのだ。あるいは、プログラマーにとってのコードやアルゴリズムも同様だろう。彼らもきっと、生徒やコードと対話し、反復的探索を繰り返すことで、よりよい教師、よりよいプログラマーとなっていたのではないか。

 そして「クラフトマンシップは具体的な実践に焦点を当てるが、その技能と理解は、より広範な問題に拡張される」。まさしくジャズの演奏における卓越性は、別のフォーマットの演奏機会においても問題なく発揮されるのだ。
 あるいは、このジャズミュージシャンがたとえば初めて木工細工に挑戦するとしても、クラフトマンシップの本質的な要素、すなわち集中力、細部への注意、継続的な改善への意欲として、きっと彼の助けになることだろう(恐らく強烈なヒステリシス効果が現れる場面とはなろうが)。

 ここに、クラフトマンシップの拡張性、すなわちハビトゥスの「移調」可能性のひとつが見いだされる。それは問題解決能力であり、学習し続ける心性であり、それ故に創造性たり得る「生きられた身体」なのだ。
 しかし、その拡張ないし「移調」の条件は、その技芸に関する卓越性にあることも指摘しなければならないだろう。実際のところ、卓越性に欠けるジャズミュージシャンが突然、未知の音楽に適応できるとは思わない。
 十分に磨かれたクラフトマンシップは、その分野の根本的な原理や法則の深い理解に至る。しかしそこに至る過程の場合、それは表面的な理解に留まるだろう。また、卓越性は問題や新しい分野への直観的な洞察力たり得る。また卓越性が自覚されている場合、それは自信と挑戦意欲として「移調」を支えるのだ。

 欲望としてのクラフトマンシップは、自分の仕事に誠実であること、他者や環境への配慮、長期的な視点を持つことを要求する。これらは、ハビトゥス=身体図式としての技能を継続的に研磨することにより、結果として形成されるものである。特定の技能における卓越性は、単なる動作の習得ではなく、身体図式の構造的な再組織化に他ならない。
 
 ここでいったん、メルロ=ポンティに立ち戻ろう。メルロ=ポンティによれば、身体は世界を「受動的」に知覚するだけでなく、能動的に世界に関与することで意味を生成する。この能動的な関与こそが、メルロ=ポンティのいう「習慣」の概念の中核をなす。ここにクラフトマンシップが見出されるだろう。
 習慣あるいはクラフトマンシップは、単なる反復的な行動パターンではなく、身体化された知であり、状況に応じて適切な行動を可能にする。それは、過去の経験に基づいて形成されるが、固定的なものではなく、新たな経験を通じて常に修正され、再構成される。ハビトゥスのクラフトマンシップとしての性質は、経験を重ね、絶え間なく再組織化されるのだ。このことは、動的な側面は、ハビトゥスの移調可能性を理解する上で重要な意味を持つだろう。

 ハビトゥスは、社会的に構造化された身体図式であると同時に、身体化された習慣の体系なのだ。これらの習慣は、ハビトゥス概念が含意する通り過去の経験に基づいて形成されるが、しかし新たな状況に遭遇した際に修正・再構成される可能性を秘めている。つまり、クラフトマンシップとしてのハビトゥスは静的な構造ではなく、動的なプロセスであり、環境の変化に応じて柔軟に適応し、創造的な実践を生み出す可能性を内包している。
 メルロ=ポンティによれば、身体は「既に辿られた道程の全体、既に形成された能力の全体、常により高次の形態化の行われるべき既得の弁証法的地盤」(SC226)なのだ。それゆえに「既に創造されてある古い構造を超出して別の構造を創造する能力」(SC 261)たり得る。クラフトマンシップは、身体の「弁証法的地盤」としての性質を表したものであろう。
 クラフトマンシップについて、「既に形成された能力の全体」というよりも、それ自体一つの「場」に結びついた一連の実践感覚とみなす向きもあるかもしれない。しかし、それを身体と見做す限り、本質的に境界線は存在しない。ブルデューにおいてさえ、学校のハビトゥスをもって社会階層の異動が可能とされたように、これらは「わたし」にとって、「既に辿られた道程の全体、既に形成された能力の全体」以外の何物でもないのだ。私たちはそのような「全体」をもって、目の前の世界を知覚し、適応する。弁証法としての「移調」はそのような適応の日常的なひとつのパターンなのだ。

 身体あるいはハビトゥスの「移調」は、このような弁証法として、ときにミニマルな前反省的次元で発現する。そして、この発現こそがハビトゥスが「構造化する構造」として、その構造化の起源となった「構造」を超えて身体を更新していくダイナミズムなのだ。

 ところで、メルロ=ポンティはサッカーを実例に挙げ、ブルデューは(恐らくメルロ=ポンティのサッカーに関する記述を参考として「ゲーム」について語っている。「移調」に関する実例として、次の項でも引き続き検討していく。

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