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【第八回】関本郁夫・茶の間の闇 緊急インタビュー 自伝「映画監督放浪記」に寄せて

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取材・文/やまだおうむ

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唯一無二の脇役俳優タンクローとの出会い
──「赤い蛇の目は死の宣告」

──第23話「赤い蛇の目は死の宣告」は、当時人気を博していたテレビの「必殺」シリーズ(1972~)や「銭形平次」(1966~84)の世界をないまぜにした戯作的な面白さもさることながら、簡潔かつ的確な演出で描かれる、闇の仕掛人集団と影の軍団との戦いに手に汗握りました。

関本 「赤い蛇の目~」は、「映画監督放浪記」でも書いたように、岡っ引きを演ったタンクローとの出会いが一番印象に残ってる。

──「金田一耕助」シリーズ(1983~2005)の巡査役や「京都女優」シリーズ(1999~2004)の刑事役など、関本作品には欠かせない俳優ですね。

関本 「赤い蛇の目~」の時、坊主頭で極端に背のちっちゃな男が俺のところへ来て、「監督、この台詞の『タタタ・・・・・・大変だ!』の『タタタ』は、台本に書いてある通り3回言ったほうがいいのでしょうか?」って真剣な顔で言うんだよ。そんなもの状況や感情に合わせて言えばいいんであってさ(笑)。俺は「馬鹿者!」って言ったんだ。そんなアホな質問する奴は初めてだったから。それがタンクローとの出会いだった。

──この回では、間抜けながらも残忍な同心役を、名悪役の汐路章が演じていて、岡っ引きがタンクローでした。

関本 うん。その日、撮影の後に、同心を演った汐路がさ、「一杯やりましょう」って言うんだよ。それで二人と飲んだんだけど、話を聞いていると、どうも汐路は最初、タンクローから俺がされたのと同じ質問をされて、ちょっとからかってやりたくなったらしい。「そういう質問は、作品の全責任を持っている監督さんに聞いていらっしゃい」って神妙な顔で言ったんだって。

──映画みたいな話ですね。

関本 汐路は、タンクローと俺のやりとりを、笑いを堪えて見てたそうだよ。

──端唄と共に現れる凄腕の殺し屋・人見ゆかりに、火野正平が戯れるように近付いて、刺される場面がいいですね。

関本 火野は、一番最初に会ったとき、女性がらみのスキャンダルでテレビや週刊誌に追っかけられててね。俺は、「どないしたらあんなに子供が出来るんや」って聞いた。そしたら笑い転げて「気持ちいいから、挿入ったら知らんやんけ!」って返してきたのが忘れられない。

──実生活で虚実を綱渡りしている感じが、サラリと出ていました。

関本 現場でも実におかしな奴だった。

──「赤い蛇の目~」は、春田純一と火野正平が相次いで襲われる場面の雨が非常に印象的です。東映京都撮影所の大御所・赤塚滋のキャメラによって撮られたこの雨は、まるで超自然の魔物のようです。

関本 特機[注1]がこだわってくれた。あの雨は、テレビにしては大がかりだったな。アカちゃんも、俺の現場でコリたんじゃないか。

──にしては、その後「影の軍団」シリーズだけで5回も組んでおられます。

関本 今思い出したけど、アカちゃんのお父さんかお母さんが亡くなった時、俺は香典を包んだんだよ。そしたら、お返しの毛布を頂いたんだ。義理堅い人だった。

[注1]撮影用の特殊機材を扱う係。この場合は、撒水機。

かねてより数々の女性遍歴がマスコミの注目の的となっていた火野正平は、「服部半蔵 影の軍団」放送開始前年に、恋人だった女優の一人・望月真理子の出産が週刊誌などで派手に報じられたばかりだった。(ヤングレディ/1978年11月28日号)

富士は遠くから見ているのが一番いい

──赤塚滋は、早稲田の理工学部でレンズ光学を学んだ、理論と技術の両方を兼ね備えたキャメラマンだったということですが。

関本 アカちゃんは、ちょっとうるさいんだよ。早稲田を出たエリートで、俺の一年先輩なんだけど、頑固っていうんでしょうかね。映画の現場は、自分が引っ張ってなんぼの世界だからアカちゃんも構えていたのかもしれないけど。

──同じテレビ時代劇でも、たとえば、この12年後に、関本監督が参加される太秦映像の「半七捕物帳」(1992~93)の劇中で降る雨とは繊細さの面で格段の違いを感じます。キャメラマンの違いもあるのでしょうけど、それだけではないのではないかと。

関本 太秦映像だって頑張ってたよ。でも、当時の東映京都撮影所のスタッフがいかに素晴らしい技術を持っていたかということだよな。俺が40歳で東映を離れた理由の一つには、実はそれもあった。

──と言いますと?

関本 俺なんかは、「日本暗殺秘録」(1969 中島貞夫)の第二班監督で京都から東京撮影所へ呼ばれて苛められ、京都に「影の軍団」でまた戻ったら、「柳生十兵衛あばれ旅」(1982~83)の現場で千葉真一と揉めたわけだ。東映を辞めるまで、俺は随分苛められた・・・・・・。これは、後で気付いたんだけど、あの頃、東京撮影所と京都撮影所を競わせることで、他社を凌駕しようというのが東映の社長だった岡田茂の狙いだったんだよ。その中で、京都のほうが上という意識が社内にあって、両者の対抗心は凄かった。岡田茂の前の、大川博が社長だった時代からそうだった。

──牧口雄二監督回で、幕府が、諸藩を互いに疑心暗鬼にさせて操るというような描き方をされていたのを思い出しました・・・・・・。幕閣や藩主の息のかかった二つの組織が死闘を繰り広げる「赤い蛇の目~」も含め、「影の軍団」シリーズには、どこかしら、東映社内の権力構造を解剖しているような意志が感じられます。

関本 だから、やっぱり富士は遠くから見ているのが一番いいんじゃないかというね・・・・・・。そんな気持ちがつのっていったんだよ。俺の中でね。・・・・・・ちょっと話は逸れるけれど、俺が東映に入って制作事務をやっていた時、平山亨さんが最初のシャシン(1963年公開「銭形平次捕物控」)を撮って、その試写会が社内で開かれたんだよ。俺はなかなか面白いシャシンだと思った。その後、飲み会になったんだけど、俺はビールを注いで回る係だったんだ。ちょうど平山さんの近くでお酌をしてた時だよ。当時撮影所長だった岡田茂がバーッと入って来てさ、平山さんの隣に座っていきなり「君、次はもうないぞ!」って満座の中で言うんだ。その時、えらい会社に入っちゃったなと思ったよ。そのシャシンは、平山さんが企画を立てたわけじゃない。会社から言われて撮っただけなのに。

──平山亨は、監督として見るべきものがあったという証言を、脚本家の掛札昌裕も残しておられますね。

関本 制作事務は全作品のスケジュール管理をするから、平山さんとは顔を合わせていたけど、性格がとてもまめというのかな・・・・・・。穏やかな、紳士的な人でね。高卒の俺なんかをいつも立ててくれた。それだけに、何ちゅうことを言うんだと思ったよ。平山さんが東京のテレビ部へ移る時、送別会が開かれて、組合役員だった俺も京都駅まで見送りに行ったけど、何とも言えない気分だった[注2]。その夜、俺も過労で倒れてしまった。

──それから間もなく、平山亨はテレビのプロデューサーとして大成します。平山さんのプロデュースの才能を岡田茂が当初から見抜いていたとはいえないでしょうか。

関本 たしかにそれはあったかもしれんな。俺が東京に来た時には、もうテレビの世界でヒットメーカーになっていた。テレビで当てたから平山さんは良かった。けど、合理化で放り出された連中のほとんどがそうはなれなかったわけだから。・・・・・・まぁそんな中で毎日撮ってたし、監督っていうのは始終物凄い緊張に曝されてなきゃならん仕事なので、現場に一人、タンクローみたいな精神安定剤になる役者がいると、本当に心強いんです。

[注2]ただし平山亨の回顧録「泣き虫プロデューサーの遺言状」(講談社刊)には、会社では送別会も見送りもなかったと述べられている。また、平山がテレビ部に移ったきっかけは、同期で当時制作課長だった、後の東映社長・高岩淡の誘いを受けてのことだったと記されている。

東映で数々のキャラクター番組の名作を手掛けたプロデューサー・平山亨。その人柄を慕う映画人は多い。写真は、御令息・平山満氏の「note」より転載。

夜の闇から響く端唄の謎

──ところで、この回について調べていて全く判らなかったのは、仕掛屋の人見ゆかりが現れるたびに流れるあの唄なんです。国立文楽劇場などの専門機関で聴いて貰っても、曲名を知ってる人が一人もいなかったんですよ。国立劇場では、歌詞に出てくる人名から調べてくれましたが、手掛かりすらありませんでした。「影の軍団」の和楽(わらく)担当の中本敏生さんは、もう亡くなられていて・・・・・・。

関本 あの唄は、中本敏生さんですね。ただ、俺も当時のことは憶えてないなぁ・・・・・・。

──そこで、伝手を辿って、現在活躍しているお孫さんの中本敏弘さんにも質問したんです。敏弘さんは、お祖父様の代から続く和楽の部屋を調べて下さり、さらに御父様の中本哲(あきら)さんにも直接尋ねて下さったのですが、結局判りませんでした。

関本 そうなんですか。敏弘さん、そこまで調べてくれたとは・・・・・・。

──いや、本当に頭が下がりました。その後、敏弘さんは三味線のお師匠さんにも聞いて下さって、お師匠さんは、明治時代に流行った端唄の有明節の哀切な曲調に節回しが似ていると言っていたそうです。それをアレンジして、現場で即興的に唄って貰ったということも考えられるのではないか、と敏弘さんは仰っていました。

関本 (少し考え込んで)新しく録ってはいなかったと思う。それやってたら、俺も憶えてるはずや。敏弘さんのお祖父さんの敏生さんが選んで来たんや。

──「黒髪は恨みに燃えた」の時の曲が、新内の「蘭蝶」というのは、国立文楽劇場の方がすぐに指摘してくれたのですが・・・・・・。あちらは、川口松太郎の「鶴八鶴次郎」で有名なので。

関本 あの唄、川口松太郎の小説に出てきたの? それは知らなかった。俺、川口松太郎、好きだったんだ。

──関本監督の初期の「影の軍団」の音楽は、明治物といいますか、新派劇の匂いがありますね。

関本 助監督の頃、新派はよく観に行っていたんだよ。「婦系図」とか色々観まくったよ。たしか、中学の時だったと思うけど、テレビで川口松太郎原作のドラマ[注3]を観て以来、水谷八重子のファンだった。

──当時、水谷八重子は、もうそれなりにお年を召していたと思うのですが・・・・・・。

関本 いやー、美人だった。娘の水谷良重(後の二代目水谷八重子)も好きだったけど、お母さんのあの綺麗さはなかったからな。敏生さんの中にも、間違いなく新派というのはあったと思う。

──たしかに。中本敏生のさらに先代は、溝口健二監督の下でずっと和楽を担当していた望月太明吉(もちづき・ためきち)ですし、敏生さん自身も若い頃は溝口監督からかわいがられていたという話があるので。

関本 溝口健二の時代から四代か・・・・・・。溝口健二は俺も追っかけてずーっと観てた。「西鶴一代女」(1952)で、殿が、全身にほくろのない女を捜して来いって言って、(連れて来られた)田中絹代が殿の愛人になるんだけど、それが“好色一代女”の原点になるわけだ。彼女は様々な男と出会って、やがて寺の前で茣蓙敷いて唄を歌うんだよ。そこが凄く人生のね・・・・・・。面白かったんだよなぁ。

──今ではスチール写真ですらあまり見ることの出来ない戦前の日活向島の匂いが、この回では何かの拍子に、撮影所の記憶の中から、ふっと出ているようにも感じました。

関本 「影の軍団」で溝口健二を意識したことは一度もないけど、何かそういうのが無意識に出たってのはあるかもしれんな。

──それにしても、今や誰も名前を思い出せない端唄とは・・・・・・。

関本 敏生さんにとって、こんなら文句ないやろ、いう唄だったと思う。「黒髪は恨みに燃えた」の時、俺が選曲者の選んだ音楽を全部入れ替えさせてるのを見てるからさ。

[注3]川口松太郎作・水谷八重子主演のドラマ作品は、関本の中学時代、関西初のテレビ局・大阪テレビにて、開局から約半年の1957年7月15日から7月29日に、前・中・後篇で「風流深川唄」が、また、同年12月29日に「振袖纏」が放送されている。前者は30分、後者は1時間の放送枠。いずれも制作はKR(現TBS)で、生放送のスタジオ・ドラマであった。

Special Thanks/中本敏弘 平山満 中本哲 石川一郎(太秦映画村) 
島津高英(国立文楽劇場) 国立劇場 伊藤彰彦  

(第九回に続く)
次回は9月28日の掲載予定です
《無断転載厳禁》

◯お詫び◯当初掲載した原稿の中で、関本監督の東映入社間もない頃の役職と平山監督の作品名に誤記があったため、2024年8月31日修正しました(筆者)

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<著者プロフィール>
やまだおうむ
1971年生まれ。「わくわく北朝鮮ツアー」「命を脅かす!激安メニューの恐怖」(共著・メイン執筆)「ブランド・ムック・プッチンプリン」「高校生の美術・教授資料シリーズ」(共著・メイン執筆)といった著書があり、稀にコピー・ライターとして広告文案も書く。実話ナックルズでは、食品問題、都市伝説ほか数々の特集記事を担当してきた。また、映画評やインタビューなど、映画に関する記事を毎号欠かさず執筆。

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