
手塚マンガに触発されて“地図から消された島”へ行く┃ヤスデ丸の1万逃歩日記 #18
毎日1万歩は歩くように心がけている編集部員ヤスデ丸(28歳)。散歩は日々の現実逃避にもうってつけ。その道中で見たもの聞いたものは、こんなもの──
きっかけは『MW』
手塚治虫の『MW』を初めて読んだのは高校生の頃。物語の核となるのは「毒ガス兵器が隠された島」で、その衝撃的な設定に妙なロマンを抱いたのをよく覚えてる。
当然、手塚治虫のことだからなにかモデルがあるんだろうと検索してみると、瀬戸内海に「毒ガス島」との異名を持つ、「大久野島(広島県竹島市)」という離島があることを知るに至る。
現在は一般観光客を呼び寄せる"ウサギの島"として知られながら、どこか腐臭漂うダークヒストリーの眠る"地図から消された島"という顔も持つ。
しかし『MW』の舞台である"沖ノ真船島"のモデルは大久野島ではなく沖縄県だ。こんな資料がある。
知花弾薬庫区域で発生した神経ガス漏洩(ろうえい)事故をアメリカの雑誌記者がスクープしたことにより、沖縄の米軍基地に大量の毒ガス兵器が保管されている事実が明らかになりました。
(沖縄県公文書館「毒ガス兵器撤去のたたかい」より引用)
連載開始の7年前、1969年に米軍基地内で起きた事件で、『MW』のストーリーはこの事件に着想を得たということらしい。
手塚治虫といえば、『ブラック・ジャック』で宮城県で地震が起きる回があった。当時中学3年生になったばかりの私は(東日本大震災が起きたのは私が中学2年の3学期)この回を読んで、「これ、もし予知だったらヤバくね…?」と一人自室で興奮気味だった。
パソコン中毒ウォンナだった私はそう思うとすかさず、地震の起きた日付・時間・県名・マグニチュードを検索にかける。すると諸々が合致する実際の地震に関する記事(だったかな?)を発見してしまったのだ。
地震が起きたのは2008年、マンガの連載期間よりはるか後のことだ。
「やっぱ予知じゃん! すげー!」。だが、検索一覧に並ぶページを複数行き来した結果、この回が雑誌に掲載される数ヶ月前(だったかな?)に起きた地震をモデルに描いた回であって予知ではない、というのがはるか昔に手塚ファンたちが残した見解だった。確かにその地震の記録もネット上には残されていた。詳細はうろ覚えだけど、そんな感じ。
……ということがあったことを思い出しながらも、元来、劇場型思想で気の移ろいやすい私を惹きつけたのは、沖縄で起きた事件よりも、大久野島の存在そのものだった。
それから早10年。「高校生の頃、友達と大久野島に行ったことがある」という夫を引き連れ(今年2月に入籍。結婚して初めての旅行)、ついに現地へ降り立ったのでアール!
チャリ VS ウサギ
さて、こっからは写真メインでテンポ良く進めていきますわよ。


「毒ガス実験に使われたウサギの生き残りが繁殖した」という説がまことしやかに囁かれている大久野島のウサギだが、1970年頃に島民によって放たれたウサギたちが繁殖したもの、というのが実際のところらしい。大久野島で毒ガス製造が行われていたのは終戦の年までといわれる。
15分ほど船に揺られ到着。わざわざ見渡す必要もなく、そこかしこに佇むウサたちが目に飛び込む。人の姿を見つけると猛ダッシュで駆け寄るウサや、フェリー乗り場近くですでに腹を満たし野生を失っているウサもいる。



ウサはとってもかわいいけれど、私の目的は砲台跡や火薬庫跡など旧軍施設の跡地、そして毒ガス資料館。君たちは他のみなさんにご飯をもらいたまえ! と、我々は島内をレンタサイクルで移動することに。周囲約4kmの小さな島なので、チャリなら30分ちょいで1周できる。





「毒ガス資料館」には大久野島にまつわる年表や、毒ガス製造に従事した若者たちが着用した衣服などが展示してある。
ふと、大久野島での毒ガス製造に携わっていた藤本安馬さん(享年96)を思い出した。ドキュメンタリー番組やニュース番組で、何度か藤本さんが当時を語る姿を見た。
〈毒ガス作りの方程式を忘れるということは、自身が戦争人間であったということを忘れることになる〉、そんなような話。当時の少年はノートに隙間なく書き込まれた化学式や製造方法を、老いた指でまっすぐに追っていた。
ここ大久野島で作られた毒ガスは、イペリットやルイサイトなどのびらん剤系のものが多い。被毒すると皮膚がべろべろにただれたり、重度のやけど症状が起きたりする。目や呼吸器系にも被害が及ぶ。
資料館には、旧日本軍が旧満州に埋めた毒ガス兵器を掘り出してしまい、被毒した中国人たちの見るに耐えない悲惨な姿も展示されていた。同じ広島にある原爆資料館に展示された日本人の姿がふと重なる。
中国には、今でも掘り起こされていない毒ガスはいくつもあるそうだ。
島に漂う戦争のニオイ
チャリンコ散策再開。島内にはさまざまな旧軍施設跡が残っている。この時間帯、ウサギを横目にこれらの跡地まっしぐらに進んでいるのは、私たち以外に一人の男性しかいなかった。
このときの気持ちを表現すると、来日したメタルアーティストのライブを見るために普段は避けている渋谷の地に降り立ち、道玄坂の雑踏の中、ふと目の前で歩みを進める黒いTシャツの男性が自分と行先が同じであることに気づいたとき──これと同じである。
他にも人はたくさんいるんだけども、やはりみんなウサギに会いに来ているのだ。きっと彼らが泊まるであろう、村に唯一の宿泊施設「休暇村」を通り過ぎ「長浦毒ガス貯蔵庫跡」に到着。




「毒ガス貯蔵庫跡」や「北部砲台跡」はいくつか点在しているようで、ウサギにご飯をあげるついでに眺めている人もいた。
さて我々が次に目指すは、階段を登った先にあるっぽい「中部砲台跡」。この道程がなかなかキツかった……。

あの~登れど登れど丸太が横たわってるんですけど! これホントに終わるの? 少なくとも高尾山よりはキツイよ(当社今年5月比)。
途中に休憩スポットらしき踊り場(?)があり、そこのベンチに先程の男性が座っていた。
私「いや~キツイっすね。こんな登るとは思ってなかったっス」
「僕もです(ゼエゼエ)。あとちょっとらしいんですけど……」
私は世界中の「あとちょっと」を信じていない。持久走だって、飲み屋で冴えない男が女を引き止めるときだって、あとちょっとって言われて「ちょっと」で終わった試しはないのだ。世界はそういうふうにできてんだぜ。でもその「ちょっと」という言葉で救われたり、嬉しかったりしちゃうのが人間てやつだよね。ちょろいもんだぜ。
で、案の定、全然ちょっとで終わんなかった。
「中部砲台跡」に到着してしばらく待っても、男性はゴール地点に訪れることはなかった。己が放った「ちょっと」の魔法にかかりきることができなかったのだ(でも同志の健闘を私はその場で称えた)。






もと来た階段を降り(男性とすれ違うことはなかった)、チャリに乗って最後の目的地へ。



戦争のニオイがここまで色濃く残っているのに、多くの観光客にとって、ここはあくまで癒やしの"ウサギの島"だ。
大抵、過去に暗い過去を持つ場所は、リノベーションされたり再開発されたりすることで、その歴史をなかったことにされるものだが、この島には戦争の記憶がありありと残されている。止まったままの時計の針をあえて動かさずにいる。それでも、見る側が見ようとしなければ、ここはやっぱり"ウサギの島"なんだと思う。
青々とした草を食むウサギたちのバックにそびえる発電機跡は、パズーとシータが目撃する苔むしたロボット兵を思わせる。
<著者プロフィール>
ヤスデ丸(やすでまる)
「実話ナックルズ」の女編集部員。埼玉生まれ中東ハーフ。いよいよアラサー。ついにYZF-R3を手放して、浮いた車庫代でフラメンコを習いに行くか検討中。「1万逃歩日記」「裁判傍聴ファイル」など不定期で掲載中
ここから先は

定期購読《アーカイブ》
「実話ナックルズ」本誌と同じ価格の月額690円で、noteの限定有料記事、過去20年分の雑誌アーカイブの中から評価の高い記事など、オトクに…