ごく平凡な家庭で育ったオクテな女子大生は異常殺戮に及んでなお〝革命〟を信じていた|連合赤軍副委員長・永田洋子
約半世紀に及ぶ逃亡の末、桐島聡を名乗る男は何も語らぬままこの世を去った。1970年代、新左翼過激派らが暴力革命を目指した時代。若きテロリストの実像とは……朝倉喬司集成「昭和の怪人 47人の真実」よりお届けします。
真面目すぎた女
「遠山さん、その指輪は何なの! なぜ外さないの」
永田洋子のこの一言が、凄惨なリンチ殺人の、いわば始まりの合図だった。会議の席上、永田に鋭くなじられたのが遠山美枝子。永田も遠山も元は女子大生。それが、山の中で一緒に武闘訓練をやることになって、一方が他方の身につけていたアクセサリーを、「覚悟があやふやなシルシ」だと決め付けたのだった。
1971年、当時新左翼の最過激派として鳴らしていた2つのセクト、赤軍派と京浜安保共闘(共産党革命左派ともいった)が合同し、連合赤軍を名乗った。すでに、よど号ハイジャック、M作戦(資金獲得のための銀行襲撃)、米軍基地爆破、銃砲店からの銃器奪取などの激しい行動で世に知られていた両組織がひとつになり、いよいよ日本に「革命戦争」を起こそうというのである。警察もマスコミも緊張し、耳目をそば立たせた。そんななか、連合赤軍の約30人が、数丁の銃、手榴弾、爆弾を所持して、奥多摩、丹沢を経て群馬県・榛名山中の山小屋に集結したのが71年12月。
この山岳アジトを根拠地にして、訓練を重ね、大規模な銃撃戦に打って出ようという算段だったが、実のところ、彼らはひたすら追いつめられていた。警察の包囲網をなんとかすり抜けて、山に逃げこんだというのが本当のところ。革命戦争といっても、具体的な展望など何もなく、このことが、リーダーが隊員に、ただ「覚悟」だの「精神改造」だのを強制し、リンチを発生させる素地になった。
「気絶するまで殴る。気絶からさめれば、新しい気持ちになれるんや」
これがグループのリーダー、元赤軍派の森恒夫の「人間改造」の理屈だった。この森に次ぐポジションを得ていたのが「革命左派」のトップとして参加した永田であり、彼女もまた、隊員のささいな欠点をあげつらっては痛めつけた。
「殴りな。強姦なんかした加藤を殴るべきだ」
隊員の小嶋和子が、もう一人の隊員、加藤能敬にかつて強姦されたと「告白」したときの永田の台詞。小嶋は最初、夜の山岳アジトで加藤に体をさわられたと訴えたのだったが、それを聞いた永田は「神聖な場所を汚した」と激怒。加藤と、被害者であるはずの小嶋まで、全員に殴打させた。加藤のとなりに寝た小嶋にも問題があるという次第で、そんなさ中に小嶋が、苦しまぎれに口走ったのが「強姦」云々の言葉だった。暴力が「告白」を誘い出し、それが許せないというのでまた…、とこんな具合に内部リンチはエスカレートし、初めのうちは素手だったのがマキでの殴打に、やがて森はアイスピックやナイフで「同志」を刺し殺すところまでいくのである。小嶋も加藤も、先ほどの遠山も含め、総計14人が「過去を総括(精算)し、革命戦士に生まれ変わらせる」という名目のもとに次々と殺された。その際、森は遠山に対し、過去の異性体験をネチネチ問い質したのだといい、まず誰よりも先に「総括」しなければならない「異常」を内に抱えていたのは森だったのではないかという気がするが、どうも永田の方は、同志の「人間変革」を助けたいと、終始本気で思い込んでいたようだ。
横浜の平凡なサラリーマン家庭に生まれた永田は、中、高、大学と女子ばかりの学校に進み、性的にはひどくオクテだった。学生時代、男友達に、そのことをからかわれ、なにくそと読んだ本が、何と『性の歴史』。それと同じように、自分の世の中に対する無知を克服しようとして、ムツカシいマルクス主義の本に飛びつき、一気にイデオロギーでガチガチの人間になってしまったように思われる。
永田と森は72年2月、妙義山近くで逮捕。そして、アジトの残党は浅間山荘で警察隊と銃撃戦を繰り広げ、連合赤軍は崩壊。森は獄中で自殺する。それを知って「森さんズルい!」と号泣した永田は、死刑確定という十字架を背負って獄中に生活した。