評と娯楽

美術展の入り口には、謝辞というか挨拶の掲示があって、その次の最初の作品の解説まで人がたまっていることがよくある。

時には作品そのものよりも、解説を読んでいる時間の方が長い観客もいて、貴重な宝を前にして本末転倒なものだと思ったことがある、かつては。

特に地域の学習型の博物館に行くと、展示そのものが印刷されたパネルに過ぎなかったり、本物の出土品ではなくて複製だったりすることもある。

しかし、興味深い主題というものは、たとえ印刷物であっても複製であっても、人の関心を引く価値がある。

主題について文字だけで説明している本ならともかく、図録や図鑑を開いても、必ずしもゆっくり説明を読む気になるとは限らないのだから、実際の展示を前にして初めて、その主題や背景の解説にも興味が沸くということは往々にしてあり得る、ということに最近ようやく気づいた。

だから、絵の前に進まずに解説で立ち止まっている人を笑っていた、かつての自分が恥ずかしくなった。
そして、その際、解説や評までつけられても納得できないという観客がいたとしても、それはまた別の問題がそこに横たわっているのであろうことに気づいた。

その問題とは、観客の不勉強や不寛容であったり、理解力や想像力の乏しさでもあるかもしれない。
また、学術用の展示と芸術の展示とでは見やすさにおいて親切の度合いが異なるけれども、現実問題としてその両者の間に白黒とした明確な区切りはないのだ。

だから、巷で芸術などと呼ばれている作品の解説に対して、娯楽性が乏しいなどとケチをつけるのは、観客の姿勢として少々筋違いなのではないか。

全き娯楽の解説に対して娯楽性が欠けていると不平を言うのは理解できる。
しかし、芸術の解説そのものや評自体は娯楽ではない。真実を理解するための情報を提供する手段である。

お固いものを求めていながら固くてつまらないなどと文句を言うのは、判断を誤っていると言わざるを得ない。

そうしたお客様意識を捨てたところに、芸術の真実の道は開けると言えよう。