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映像に対して音楽/音ができること 鈴木治行<映像と音楽>室内楽個展への補遺

ある映像作品が放送/上映されたとき、――それが映画かドラマかアニメかに関わらず――こんな無邪気な言葉を耳にする機会が増えた。「この映像にこの音楽は本当にぴったりだ」。クラシック音楽の演奏ならば、あるアプローチについて、「ああ、こう来たか」や「こういう方法があったか」と、表現者が様々な可能性の一つとして、一つの表現を選択していることを視野に入れた批評がなされるだろう。作曲に対する批評も同様だ。しかし、映像と音楽については、あたかも提示されたものが唯一解であるかのように受け取られる傾向がある。この無邪気さは何に依るものなのだろう?

実をいうと、映像と音楽について、これこそが唯一無二の組み合わせである、という解がないことは、フランスの批評家/作曲家ミシェル・シオンが行った、その筋では有名な実験によって示されている。シオンは、ある映像シークエンスに幾つかの異なった音楽をつけて、被験者に鑑賞させてみた。結果、被験者からは、どの音楽がついているものに対しても、「映像と音楽が合っている」との感想が得られたという。

筆者もかつて、シオンにならって、同じような実験を行ってみたことがある。押井守の『GHOST IN THE SHELL /攻殻機動隊』(1995)の中盤に、セリフのない4分ほどのシークエンスがある。これから元の音楽(川井憲次)を取り払って、12種類の異なった音楽(モーツァルト、ヤナーチェク、ケージ、A.C.ジョビン、松平頼則、椎名林檎、池田亮司など)を付けてみた。著作権上の問題があり、公開して多くの反応を調査するわけにはいかなかったが、実際に観た方の大部分から、どの例に対しても「これも面白いんじゃないか」という反応が得られた。そして、「この音楽だけは合わない、ダメだ」と拒絶した方はいなかった(ただし、この作品を良く知り、元の音楽に慣れ親しんだ向きには、元の音楽と雰囲気の異なる音楽に当初違和感をもつ傾向があった)。

音楽をどのタイミングで始めるか、という点についても、はじめこそ些か拘ってつけてみたものの、残りは、既存の音声トラックを映像シークエンスの開始に合わせてただ貼り付けるだけという雑さだった。それでも、何度も見返しているうちに、映像の中の動きと音楽とが、上手く対応しているように思える箇所が幾つも出てくる。そう、映像の中のちょっとした運動、たとえば画面を横切る子供たちの姿と、音楽の中の、たとえば対旋律の上行音型との間に、なんとなく特別な関係があるように。その場面にその音/フレーズがあるのは、いわば「偶然」であるにも関わらず。

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映画に音声がついた、いわゆるトーキー映画の嚆矢は、1927年公開の『ジャズ・シンガー』(あくまで長編の範疇で)といわれている。ただ、これは映画フィルムに連動して録音されたレコードを上映に合わせて再生するシステムで、映画フィルムに音声トラックがついたトーキー映画は、ディズニー制作の『蒸気船ウィリー』(1928)が始祖といえるだろう。

特筆すべきは、このときから、映画の上映とは、「ある映像シークエンスに対し、ある音楽/音響が、常に同じタイミングで発音される」ものとなったということだ。

ゆえに、今、映像作品をみる人のほとんどは、この対応関係がもたらす効果の強固さに、無自覚なまま囚われている。その強固さは、映像シークエンスと無関係に選ばれた音楽を、「合っている」と思わすほどの影響力をもつにも関わらず。加えて、この強固さは、音楽の選択のみならず、「タイミングの選択」に於いても発動する。どういうことか。たとえば、家庭用ビデオカメラを購入すると、撮影した映像に後から音楽をつけられるソフトが同胞されている。子供のお遊戯の映像に、親が自分の好きな音楽をつける、そういう用途のためのソフトであるが、筆者の手元にあるものの場合、映像に対して音楽をつける際、音楽の出のタイミングを30分の1秒単位で指定できる。

上の『攻殻機動隊』の例でも、これを使って、音楽の出のタイミングを30分の1秒単位で変えると、映像に対して音楽全体が、その分だけ「ズレて」つけられることになる。ただ、コンマ1秒の小さなタイミングの違いでも、繰り返しみていると、両者の違いが薄っすらとわかってくる。そして、ここが肝心なのだが、映像にどのような音楽をつけるのか、ということと同様に、どのようなタイミングでつけても、それなりに映像と音楽との関係として成立しているようにみえるものなのだ(ただし、演奏動画において、映像と音とが微妙にズレているときはこの限りではない。不思議なもので、まったく異なる音楽をつけたときには、そんなに気にならなくなる。脳が完全に別物と判断するからだろう)。

そもそも、なぜ、映画は音楽を必要とするのだろう。映画が生まれた頃は、上映中に映写機がたてる音があまりにもうるさく、それを誤魔化すために音楽を流されたという。映写機が改良され、ノイズが小さくなると、音楽には映画の中の感情表現を盛り立てる効果が期待されるようになった。そして、「トーキー」というテクノロジーが、映像と音楽/音とを分かちがたく結びつけていく。そう、映像と音楽/音とが「合っている」という感覚は、音楽の選択よりも、この結びつきの強固さによって齎されたものでないと、誰に言えるだろうか。

ただ、映像と音楽とが、「トーキー」によって強固に結びつけられているからこそ、「無声映画に音楽をつけること」に、今日ならではの可能性を見出すこともできるに違いない。

鈴木治行は現代音楽作曲家であると同時に、映画音楽作曲家である。ゆえに、数々の映画製作のなかで、ある映像にある音声トラックを沿わせた瞬間に、そこに特別な関係が生み出されることを日々経験してきたはずだ。そうした鈴木が、サイレント映画にライブで音楽をつける意味はなにか。それは、「トーキー」というテクノロジーが在ればこそ見出された、極めて高精度のシンクロが齎した映像と音楽/音との関係。それを前提としつつ、両者間の厳格な対応関係を相対化し、精度と厳格さゆえに捨てられてしまった可能性を啓くこと。テクノロジーの精確さに人力の精確さで対峙し、あるいは精確さとは別の価値を見出すこと。音楽の抽象性、音の具体性。様々な音素材をもって映画を装飾し、ともに遊び、そして亀裂を入れること。

映像に対して音楽/音は何ができるのだろう?その可能性の一端が今日明らかになるに違いない。


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