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黛敏郎の「涅槃交響曲」について幾つか。

雑誌「東京人」のあるページに、私が撮った写真が掲載されているというので、手に入れてみた。目玉は映画館に関する特集だが、日本の作曲家についての小さな特集もあり、黛敏郎の「涅槃交響曲」が戦後前衛(12音音楽など)への対抗意識で書かれたという記述に、大変な違和感を抱く。

というのも、黛敏郎はNHKの協力で梵鐘の周波数解析をし、その結果を「涅槃交響曲」の作曲に生かした、と、従来はいわれていたのだが、、、、2010年代に入って、これが完全な誤りで、「涅槃交響曲」の音響解析は、戦前の京都の音響物理学者:山下敬治の仕事に全面的に依拠していることが判明した(山下の業績は出版もされており、八木秀次:右翼的な言説でしられる「憲法学者」ではなく、八木アンテナで知られる工学者、編著の「音響科学」という本の一章を成している)。

何に依拠しているのかがわかったことで、黛の「涅槃交響曲」作曲のプロセスも、従来とはくらべものにならないほどクリアになる。最初の段階では、黛は梵鐘の部分音(楽音でいうところの倍音)の周波数を、4分音より細かい精度で音高に翻訳しようと(G#音より1/6音=半音の1/3下、等と)試みていた。

当時はコンピューターはおろか、電子計算機すら一般的ではない。コンピューターに関して最も先進的であった国アメリカの、理工系大学のトップ:マサチューセッツ工科大学の気象学者:E・ローレンツが、コンピューターによる大気のシミュレーション中、ちょっとした入力の手間を惜しんだことから、「バタフライ効果」と呼ばれる現象を発見した(当時のコンピューターの「遅さ」の賜物である)のが、涅槃交響曲作曲の2年後となる1960年であった。

今なら、たとえばエクセルの表計算機能を使い対数計算を行うだけで、音名をセント単位の誤差とともに出せるのだが、黛はこのプロセスにおいて、ドイツ製の周波数表(A=430Hzとしたときの、各音の周波数が整数で列記してある)を利用して当りをつけるしかなかった。この表が精度的に非常に問題のあるものだったこともあり、周波数データを正しい音名へと変換できていない箇所も散見される。

山下論文の周波数の分析 赤字で示しているのは、黛手稿の計算が間違っている部分

ならば、涅槃交響曲は改訂されて、「正しい音名」で弾かれる必要があるのか?そうではないことを保証するのが、その後の作曲のプロセスなのである。

当初、黛は、梵鐘の部分音周波数を4分音単位に落とし込もうと考えていたが、その考えは早い段階で棄却された(そもそも、当時の日本のオーケストラに、4分音を含む音組織を演奏できる能力はなかっただろう)。そこで、かなり粗いことは承知で、12音平均律で部分音周波数を近似していくこととなる。

梵鐘の部分音を、12音平均律で近似するということは、音響の再現という点からいえば確かに後退である。しかし黛はそこを、当時、自らが強い興味をもっていた、12音技法と相関させる契機と考えた。

山下論文の存在によって、涅槃交響曲で黛が使用した和音(というか合音)の素性が明らかになった(「黛敏郎の電子音楽」(川崎弘二編著)収録論文での、川島素晴による分析は、かなり精緻なものであるが、元ネタが明らかになった今みると、残念ながら違っているところが幾つかある)。特筆すべきは、(1)山下論文で測定された周波数そのものを提示している和音、(2)ある種の移高を行っている和音、これの判別が出来るようになったことだ。

涅槃交響曲の冒頭3つの和音をみると、最初のものは、京都平等院で山下が採取した周波数を移高なく使ったもの、2つめは、黛が当時日本最大といわれた東大寺の梵鐘の周波数を仮説推定(このプロセスには大きな問題があるのだが、科学的な厳密さが求められる話ではもはやないので措くとする)したもの(移高はなし)、で、3つ目は無名の半鐘の周波数から出ているのだが、これは移高されて使われている。

では、なぜ3つ目のみが移高されるのか。これは、冒頭3つの和音で1オクターブにある12音をすべて網羅するよう仕組んだ、としか考えられない。この点を鑑みるに、そのあとの音の組織法にも、音列的なアイディアはかなり反映していることがわかり、涅槃交響曲は、反12音技法などではなく、相当に特殊な12音技法適用例に他ならず、素材の音響とは別レイヤーの、この12音技法周りの構築性のために、科学的に「正しい」音名へと改変することが決して許されないのだ(特に第二楽章では、かなり明白な形で12音列が提示されているので、注意してお聴きいただきたい)。

黛は、その電子音楽の創作において、シュトックハウゼンの手法をほぼ丸パクリしている。その負い目が、山下論文のある記述と共振して、結果、かなり歪で皮相的な東洋賛美へと向かってしまった、という点も、山下論文を下敷きにすることで初めて了解できるのだが、その話については改めて。

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なお、山下論文が涅槃交響曲の元ネタであることについては高倉優理子氏の仕事を、涅槃交響曲に限らない黛作品と音列技法の関連については清水慶彦氏の仕事を参照すべきだろう。

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