手紙と絵本 子どもと大人
子どもが生まれてから、子どもが生まれると知ってから
悩むことが多くなった。そう振り返る。
昔から「大人」が嫌いだった。
子どものことを思うと、子どものことを見ていると、
自分が失ったもの全部つきつけられる。
すっかりと、嫌いな「大人」になっている。
これはかっこつけて言っているのではなくて、
本人としては至って真剣な告白のつもり、
信じてもらえなくても構わない。
「信じてもらえなくても構わない」、
むしろこっちの方がずっとかっこつけているくらい、
本人としては至って真剣な告白のつもりで。
YouTubeに登場する成功者たちに
自分にないもの全部つきつけられるより、
自分のいくらかを授かっている子どもから
自分が失ったもの全部つきつけられるほうがつらい。
わかってもらえると思う。
自分の「子ども」を黙殺している、そのつらさ。
「自分が失ったもの全部」ってのは、
黙殺という罪の総数、かっこつけんな。
良心というものは、同じようなものだと思っていて、
自分が見て見ぬふりをしてきた自分らしさから
できあがっていっている、しかも現在進行形で、
というふうに思っている。感傷ではない。
かっこを脱ぎたくても脱げないもどかしさ、
わかってもらえると思う。
そう振り返るのは、
もうすぐ子どもが11歳を迎えようとしているから。
明日、卒業した保育園で、
毎年恒例の「こどもまつり」に、
同じ卒園生たちと遊びに行くらしい。
「あいつの名前、なんだっけ」
昨夜、同期の卒園生を数え上げていると
どうしても出てこない名前、
髪が短くて、歯が抜けていて、靴が大きくて、
そんな大半の園児にあてはまってしまうヒントでは
こちとら手助けができなくて、自分で
卒園アルバムを取り出してくる。
外函を外すと、ピカチュウの封筒がこぼれでてくる。
「おてがみをかいてください」
5年前、保育園の担任の先生にたのまれて
6歳の誕生日を迎える子どもにむけて
父と母、その体で書いた手紙が2通出てくる。
各々に読み返す、以下は父の体で書いた手紙。
(スペース、行間、原文のままに記す)
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○○○へ
(※とてもよい名前なので、その名前は伏せておきます)
どようび、テレビで ピングーがおわるころ
「きょう としょかんに いこっか?」ってきくと、
きみはへんなかお、へんなポーズをしながら
「いぃよぅー」って へんじする。
「そろそろいくよ」、じゅんびがおわって
こえをかけると、きみは
「これがおわってから」って おかしのはいっていた
はこをつかって、せいさくをはじめる。
「これもっていく」、せいさくしたものを てに
あそびながら げんかんへ。
くつをはくきみに 「おしっこは?」ってきくと、
「いまいこうとしてたのに!」って おこられて、
バタン! しまるトイレのドア。
「あそこのかんばんまでだよ。よーい、ドン!」
「くろいところは とおっちゃだめだよ」
「おっちゃん ギンナンふんだよ。くさっ!」
「どんぐりみっけ。もってかえっていい?」
みちに たくさんのあそびが ころがっている。
としょかんで ほんをかりる。
おっちゃんのやりたいことは それだけ。
でもきみは、おうちと としょかんのあいだに
たくさんのあそびを みつけだし、あるきながら、
おもしろいなって、ほんとうに おもしろいんだよ、
あそびで きれいにつなげていく。
これって、きみのことばを かりるなら、
けっこう ”やばい”ことだよ。
「やるべきことをやってから やりなさい!」
へいじつ、そういって きみのこと おこるけど、
ほんとうは、やるべきことをうっかり
わすれるほどの きみのしゅうちゅうりょくと、
まるでポップコーンみたい ポンポンポン って
やりたいことがはじけでる きみのあたまに、
”やばい”なって おもっている、そんなとき
ふいに きみのうまいかえしに わらわされて、
ついつい ゆるしてしまうことも あるんだな。
おこられても、きみは うまくあたまをつかって
きれて はなれてしまった ほんとうは ひとつ
たくさんのものたちを、きみは
べつに きれいじゃなくても いいよ、
うまく あそびで つなげてね。
(そうそう、 ”やるべきこと”
うっかりわすれるとこ だったよ)
6さいのおたんじょうび、おめでとう。
おっちゃんより
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6歳の誕生日に送ったその手紙は、
6歳未満のリズムで、
そのとき親しみのあった言葉だけで綴られている。
先生に頼まれて、
ある土曜日、その日1日のことを、
そのままに残しておこうと思いたち、
その日の子どもをそのままに受け入れていると、
「なんでないてるの?」
その日1日、何度も、どうにもしようもないほど
涙がとまらなかったことを思い出す。
すべての映像が、ぼやけていて、
それでいて鮮明に思い出せる。
失ったものを、不器用にもとりもどそうと
懸命に綴ったことを思い出す、大人である。
それは手紙でない。
われながら、真剣だと思う。
節々に切れ味、危うくも、
「きれて はなれてしまった」、そのあたり
自分なりに、死に物狂いの遊びである。
読み返して、そのときの真剣さを思う。
「なんでないているの?」、そう聞かれる前に
隠すものを隠し、手紙をしまう、大人である。
終わりがあるってことは、つながりの区切りには、
どうしてか、涙が必要となる。
そして読み返したそのときも、また別の区切りである。
季節があり、そして季節になる。
月並みか、月下イルカも泳ぐわい。
こどもまつりは、子どもたちとその親、
その地域の人たちの作品を展示する場でもある。
6歳、子どもの最後のこどもまつりで、
5年もかかってようやくできた絵本を展示した。
(当時、せなけいこさんの絵本が好きで、
自分にもできるかもそう思い、なかなか
完成にこぎつけない思いのままに完成にこぎつけた)
「ウツワ」に悩まされていたのがわかる。
それから解放されたくて、「ウツワ」を遊んだ。
嫌々ながら、欲しかった言葉をしぼり出した。
いたって真剣である。子どもでもある。
「ダンギ」のダンは談ではなく断のイメージで
つくったことを覚えている。
こればかりは、すっかりと大人である。
「褒められにいく」
カラマーゾフの兄弟、次男のイワンが
法廷で自分に有利な証言をする自分の姿を思い浮かべて
戦慄している、その取り乱したイワンの姿が
自分にかさなるところがあり、その姿を
些細なことで、思い出しては戦慄している。
自分もまた、嫌に頭のまわる、
頭のおおきな次男である。「大人」である。
「ウツワ」にはおさまりきれないものがある。
それが大きな子ども、掬われない子どもである。
学校が終わると、子どもは学童保育で過ごしている。
家庭以外のもう一つの居場所となっている。
高学年となった子どもは、
「やるべきこと」をやらずに遊んでいる低学年を叱る。
土日の行事でそんな光景を目にすることが多くなる。
「たよりになります」
そう言われると、うれしくもあり、
少しばかり嫌な気持ちになる。
学童保育の指導員さんたちは、
そうやって、子どものことを褒める。
そうやって、子どものことを忘れていく。
大人に褒められて、子どもを失って、
ちゃんとした目的ととても便利な道具、
追い求めて、「大人」になっていく。
「複雑な思いである」、そんな
法廷でも聞き入れられる言葉では締められずに、
また新たな遊びを探そうともがいていて、
自分なりに楽しんでいる。
これは「大人」になり、父が必要になくなった息子への、
大人のサンプリングソースの一つとなることを願いつつ。
Now I gotta ball w/o you
Now I gotta ball
(『ball w/o you』 21 Savage)
ボールは後ろへ逸れていく。
追いかけろ、不器用であれと。