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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||感想~自分にとってエヴァは"特別"になったのか~※ネタバレ有り

※エヴァに付いては自分より遥かに博識な方がいるので、先に予防線(というか言い訳)を。

①現時点で私はほぼTVアニメ版・旧劇場版(以下本文ではまとめる際は旧作と表現します)及び新劇場版を観た範囲の知識しかありません。
③その他書籍等で明かされている公式設定や専門用語の詳細、庵野監督のエヴァに関する発言も殆ど知りません。
③貞本先生の漫画版エヴァも未読です。

そのため、理解を誤っている点も多々あるかも知れませんが何卒ご了承ください。

第零章 前書き~自分語り~

noteでエヴァの感想を書く人の多くがそうしているという自分語りから。

自分にとってエヴァはこれまで"特別"な作品ではなかった。
自分はいわゆる直撃世代にあたり、当時、中学2~3年の頃、エヴァは大ブームになったため、当然同世代のオタ友達や知人は10代の頃にエヴァにハマった人は多い。
ただ、自分にとっては当初そこまで夢中になれるアニメでは無かった。
TVアニメ前半と後半の落差(その後半があったからこそ多くの人にエヴァが刻まれたのだろうけど)に困惑し、むしろ前半の展開の方に好印象を持っていた。

そもそも当時の自分はアニメ自体をそんなに見ていなかったし(今になって後追いのごとく当時の名作アニメを見たりしているけれど)、エヴァを見る以前に藤子・F・不二雄の異色(SF)短編や手塚治虫の『ブラック・ジャック』、小説なら星新一のショートショートの洗礼を受けていた自分には、短編の中で見事な深みを伴ってオチを付ける作品群に比べ、エヴァの「未完成のまま終わらせたような作風」にはいまいちノレなかったというのが当時の心境。

その後、改めてエヴァを見直すきっかけは新劇場版の「序」「破」であり、ちゃんと物語の決着を追おうと思い至ったのは新劇場版があったから。

そしてシン・エヴァ公開の数日前に久々にTVアニメ版・旧劇場版を見返して、エヴァを一番最初に見たときどういう物語と捉えたかを思い返した。

今にして思えば「(旧作の内容をほとんど忘れて)Qまでの新劇場版を見た自分」と「旧作から通しで新劇場版を見た自分」2つの視点で作品を楽しめたとことはとても有意義だった。

TVアニメの前半部を見たときは先に述べたように初見時からエンタメ作品として面白く感じた記憶は間違いなく、改めて見てもそれは変わらなかった。

当時の自分はエヴァの前半(具体的には第拾弐話 「奇跡の価値は」まで)を見たとき、この物語は最終的に「少年少女が様々な葛藤を抱えながら使徒を倒していく中で乗り越え成長し、仲間との絆を深めていく中でシンジ(及びアスカ、レイ)の心が救済される話」という割と王道の話になると感じていたのだ。
ただそれは大きなミスリードで、どんどん物語は梯子を外すような展開になっていくことに大きく困惑した。

これは新劇場版を観たときと同様で、「序」「破」を観た時にとうとう上記のような(TV版最終話のような形でなく)シンジの心が救われるエヴァを見れると自分は考えていたのだ。だから「Q」でまた梯子を外されたような印象を抱き、ひどく落胆したということを改めて認識できた。

多分自分はずっと、(TVアニメ前半で感じたような)"王道のエヴァ"を観たいという思いをどこかで抱えていた。

そして、シン・エヴァでようやく納得というか、王道の更に上を行く結末を見せてくれたので、もう文句の言いようがなかった。

シンジだけが救われるのではなくアスカもレイもカヲルくんもミサトさんもゲンドウも、多くの人の心を救済する物語となったから。

これからの章では旧作から新劇場版に至っての何人かの主要人物の描写の変化について、いくつかポイントを書きながらどうシン・エヴァに至ったのかを掘り下げていく。

第壱章 碇シンジと周囲の変化について

自分の解釈では主要人物の中で、碇シンジというキャラは旧作と変わっていない。

最初からそう考えていたわけではなく、当初「破」の終盤でのシンジの行動を見たときは「今回のシンジは旧作とは違う」と解釈していて、そのため「Q」での一連の行動を見たときに旧作とメンタルが変わらないシンジに若干いらだちを感じていた。

しかし、旧作から見直していくと、(旧作の展開も一種の平行世界みたいなものでの結末と解釈すれば)むしろ周りのシンジへの接し方や関わり方、環境などいくつかの変化が、シンジの心境とシン・エヴァでの行動に変わっていったことが分かる。

当時は「破」のときのシンジなら・・・なんて考えていたけれど、シンジ自体のキャラクター性は特に変わっていないと解釈すれば納得できる。

また、シン・エヴァを見た今になって思うと「Q」でシンジのメンタルを壊す展開に持っていくことは、物語の流れは全然違うものの、旧作の後半をなぞっているように感じられた。

そこからどうシンジが立ち直っていくか、そしてゲンドウと対峙できるような覚悟を持てることが出来るかというのがシン・エヴァのシンジにとっての肝であって、当初は困惑したけれど、今になっては必要なシークエンスだったと分かるし、そう納得できるように「Q」の展開をシン・エヴァは拾ってくれた。

シンジは同じような状況に立てば、旧作・新劇場版とも同じ行動を取る。そしてシン・エヴァではその行動が、結果的に幸せにつながっていった。

例えば旧作と新劇場版との大きな変化のひとつであるダミーシステムのくだりでトウジがエヴァのパイロットにならなかったこと。

ここで旧作と同じくトウジがパイロットだったら、シン・エヴァでの第3村で成長したトウジとのやり取りは起こりえなかった(同様にケンスケやヒカリもあのように優しく迎えてくれたかは分からない)。

そういったいくつかの旧作からの変化に必然性を持たせてくれたことが、シン・エヴァで誠実に感じたポイントだった。

こういった変化点について、全てを掘り下げることはとても出来ないが、他の章でも少しずつ拾っていく。

第弐章 葛城ミサトの眼差しの変化について

旧作のミサトは終盤に至るまで結局シンジ・アスカの「保護者」になり切れない人だったという印象だったけど、新劇場版でのミサトは「保護者」になっていた。それは簡単に表現するなら旧作より新劇場版のミサトは「大人」だったからと言える。

自分が印象的だったのは旧作と同じシチュエーションがある「序」「破」での変化。

命令無視をして、なおかつ投げやりな態度を取るシンジに対して「いい加減にしなさい」と叱る台詞の中で旧作にあった「・・・あんたみたいな気持ちで乗られるの、迷惑よ」のような突き放した台詞はカットされている。

また、旧作では2人の親子関係に付いて直接関与することは無かったが、ヤシマ作戦の中で、綾波に代えようとするゲンドウに、シンジを信じてくださいと訴える場面があったり。

そうしたミサトの新劇場版での言葉・行動が、シンジには直接届いていないことも含めて、何かしらシンジの周囲に変化を与えている。

旧作でのミサトはしばしば「アダルト・チルドレン」と揶揄される面がある(赤木リツコにも同様に言える面があるがそれは後述)。
幼少期の父との確執や別れがトラウマになり、大学時代に加持と付き合い、一時期愛欲に溺れた日々を過ごしていた際に、加持にどこか父親を重ねて歪なファーザー・コンプレックスを形成していたことも述懐している。

新劇場版ではあまりミサトと父のことについては多くは語られていない。ただ、少なくとも旧作のミサトよりは父親のことについて折り合いは付けているというのは想像に難くない。

何故なら、旧作のミサトならすんなり加持とヨリを戻して、子供までこさえるなんてことは無かったはずだし(加持とのやり取りが旧作より大幅に減ったのは単純に尺や映倫的な都合もあったかも知れないけど、そこに至る旧作のような葛藤自体が無かったとも考えられる)。

旧作ではシンジを引き取ったもののどこかずっと持て余している感じで、アスカ自身もミサトにあまり心を開いていない。
疑似家族ゴッコは早々に瓦解し、また、終盤塞ぎ込むシンジを体で慰めようとするシーンもあり、それはとても保護者としての振る舞いとは外れている。

新劇場版では「破」の前半を見る限り、シンジ・アスカとの共同生活は上手くいっていて、アスカも3号機に乗り込む前のミサトとのやり取りで、誰にも言っていない心情を吐露したりして信頼関係が形成されているのが分かる。そのときのミサトはとても「保護者」然としていた。

後に「Q」でシンジに「何もしないで」と突き放すような態度を取り、「破」の終盤で「行きなさい!」と言ったのは何だったのかと猛烈に批判を浴びたが、そこもシン・エヴァではトウジを通してミサトはもうシンジに何も背負わせなくなかったんじゃないかと拾われた。そしてミサト自身も罪悪感を抱えていたことが分かる描写もあった。

何よりシン・エヴァの終盤、シンジと共に写っている息子の写真を見るミサトの眼差し・台詞は2人の息子を持つ母親のように映った。

第参章 赤木リツコとMAGIシステムについて

旧作後半の展開に大きく影を落とすことになるMAGIシステムについて、新劇場版においてもネルフ内のOSとしての設定自体は残っているものの詳しい説明はカットされている。

リツコの母(赤木ナオコ)の三つの人格(科学者として、母として、女としての人格)が投影されているという設定自体が新劇場版ではオミットされたと考えられる。そもそもリツコの母の話自体が新劇場版には出てこないし、MAGIに関わる話も新劇場版には出てこない。


また、旧作ではリツコの母及びリツコ自身のゲンドウとの肉体関係(愛人関係)を持っていたが新劇場にはそういった描写はない(母親が愛した男と関係を持つというところも旧作のミサトと同様に幼いころの親とのトラウマの発露と感じる)。

つまり旧作における赤木リツコというキャラの影の部分を大きく形成していたそれらの部分が新劇場版ではごっそりカットされていて、あくまでミサトの良き理解者・仕事における右腕・心を許せる親友であり、本作における良き「大人」の部分を担う人物に変わっている。

象徴的な場面としてはシン・エヴァ後半で対峙したゲンドウに対して躊躇なく発砲したシーン。旧作では躊躇したことで命を落とすことになったので、明らかにあれは旧作との意識の変化を明示するシーンだった。

それは結果的に(後述する加持リョウジと同様)旧作に比べてキャラとしては少し影が薄くなってしまったけれど、旧作とは違い最終的に生き残り、精神を持ち崩すこともなかったという点はある意味では一番旧作に比べると幸せな生き方が出来たキャラだった。

第四章 加持リョウジの扱いについて

ある意味、加持リョウジは新劇場版で一番割を食ったキャラと言えるかも知れない。

加持役の声優・山寺さんがシン・エヴァのパンフで少し危惧されていたように、加持というキャラへの思い入れは新劇場版だけしか見ていない層とはかなり分かれると思われる。

旧作のアスカに好意を持たれているという設定が無くなり、ミサトにネルフが隠している様々な事柄を告げる役割というのも、そもそも新劇場版では序の時点でミサトはネルフ本部最深部のリリスの存在を知っており(逆に言うとここまでの情報はミサトクラスの幹部には公開されている情報と思われる)、その点においては大きな役割を果たしていない。

旧作ではミサトが葛藤を経て再びヨリを戻し、何者かによって殺される(その後に分かった留守電でミサトが心を病む)という複雑な役どころだったけど、新劇場版ではすんなりヨリが戻ったようで子供まで出来るので。

また、ミサトやリツコが旧作より大人らしい対応を取ることで相対的に影が薄くなっているようにも感じた。そもそも出番が少ない。新劇場版では回想以外で登場したのは「破」だけだし、回想もシン・エヴァのみだし。

新劇場版において命をかけてサード・インパクトを止めた重要人物なんだけれど、描写自体が少ないので、新劇場版のみを観ていた層がどこまで感情移入出来たのかというのは少し気になる。

ただ、どちらも死ぬけれど加持リョウジとしては愛する人のために死に方を選べた新劇場版の方が幸せであったことは間違いない。

第伍章 アスカ 惣流から式波への変化について

「式波」としてのアスカについてはシン・エヴァで色々と判明した設定がある。その点に主なポイントを絞っていく。ただ、それでいて詳しくは語られていない部分もあり、推測部分がどうしても多くなる。

①綾波同様、シリーズであったこと

名前についての詳しい考察は置いておいて、浅はかながら単純に苗字に「波」が付いているのがシリーズであると考える(真希波も明らかにゲンドウ・冬月の大学時代に交遊があったことを考えると実年齢と見た目が違うので、エヴァの呪縛なのか人外なのか、シリーズなのか結局明らかになっていない)。

旧作の「惣流」としてのアスカもシリーズだったのかというと、それは違うと思う。もちろん上記の点のみだと根拠としては浅く薄いので、以下2点を主な根拠としたい。

②旧作と違い天涯孤独だったこと

既に「破」の時点でアスカの口から語られていたけど、シン・エヴァでは、はっきりと幼少期の思い出から生まれたときから親がいないことが描写されていた。
旧作では母親の存在がアスカがエヴァに乗ることの大きな呪縛にもなっていたけど、「式波」としてのアスカにはそれが無い。

③シンジへの恋愛感情について

「式波」としてのアスカは「破」でのシンジとのやり取りを見ても分かるし、またシン・エヴァではっきりとアスカの口から当時シンジを好きだったことも告げられた(「Q」でアスカがシンジにガラス越しに殴りかかった理由含めて、はっきりと明言する点は今までに比べてシン・エヴァはとても説明してくれるなあと思ったもの)。

ただ、シン・エヴァで「綾波」シリーズは碇シンジに好意を持つよう仕組まれているということを聞くと、実は「式波」も同じだったのではないかと勘繰ってしまう。

その点、旧作での「惣流」としてのアスカは実際ほとんどシンジに対してデレていない。むしろ後半はシンジの方がエヴァとのシンクロ率が高いことへの嫉妬と、使徒との戦いにおいてあまり結果を出せていない焦燥から、シンジに対して嫌味を言ったりキツイ態度を取っている。何より旧劇ラストの「気持ち悪い」は拒絶を示すもの。

後年、アスカは「ツンデレキャラ」として定着したけれど、おそらくそれは派生作品での振る舞いや新劇場版の「式波」としてのアスカから発展したもので、「惣流」としてのアスカはシンジに対しては恋愛感情は無かったと思う。

④「元アスカ」は惣流なのか

シン・エヴァ劇中に出てきた「元アスカ」が「惣流」じゃないかと考察する人は多々いるだろうし、「シリーズではないアスカ」と考えると惣流に行き着くのかと思う面もありつつ、あまりに劇中の描写が少ないので、はっきりと明言はしたくない。

⑤1人の人間になったアスカ

シン・エヴァのクライマックス、アスカは旧劇のラストと同じような場所で、エヴァの呪縛から解き放たれて年相応の姿になる。併せてシリーズというある種の人外のような存在ではなく、1人の人間としてのアスカになったと言えるかも知れない。

おそらくケンスケと共にこれから歩むことになるであろうこれから、シンジと結ばれなかったことは今回のシン・エヴァでかなり否定的な人も多かっただろうけど、旧作から通して見ると本当にアスカの扱いがひどいので、どんな形でも幸せになれば良いなと思った次第。

第六章 綾波レイ アヤナミレイ(仮称)について

シンジ同様、綾波というキャラも旧作から変化はしていないと考えている。もちろん、別のシリーズになる度に前のシリーズが経験したことはリセットされるという特異性はあるとしても。

シン・エヴァでの第3村のシーンで確信に変わったけど、多分最初にシンジと出会ったレイが特別なのではなく、綾波シリーズは同じ過程を辿れば同じような人間性を確立していたはず。

今回アヤナミレイ(仮称)が村の人々との交流の中で徐々に人間性を確立していったのがその証明。
また、綾波がそういった人間性を確立するのはシンジでないと出来ないことでもないというある意味残酷な証明でもある。

物語全体においては、どうしても重苦しいシーンの多い劇中においてアヤナミレイ(仮称)の村人との交流シーンはシン・エヴァ本編の癒しだった。

また、シン・エヴァにおいてアヤナミレイ(仮称)はシンジを立ち直らせるきっかけにもなったし、またその「死」において、旧作のようにシンジに絶望を与えるのではなく覚悟を決めさせた役割も担っていた。

「Q」においてシンジを絶望させる役割を大きく担っていたアヤナミレイ(仮称)がこんなに救いになるとは!と、シン・エヴァ本編の中でもお気に入りの描写。

第七章 マリエンドから感じたオマージュについて

マリについては劇中ではシン・エヴァにおいても謎が多いままだったので、キャラについては多くは語れない。

ただ、ラストのマリとシンジが結ばれるエンドについては賛否があるんだろうけど、自分は割と納得できた。

メタ的な面で言うと本作は(どうしても歴史が違うので)やはりアスカと綾波の2大ヒロインであり、この2人のどちらとシンジが結ばれても角が立つという面もある(綾波についてはやや近親的な歪さがあるので無いと思うひとも多いだろうけど)。

あるいは(昨今人気のラブコメと違って)現実的に中学・高校で付き合った相手がそのまま大人になっても一緒なんてほとんど無くて、大人になったら全然別の人と付き合うだろうなんて、シニカルな投げかけもあったのかも知れない。

ただ自分としては、(「裏コード999(スリーナイン)」なんてワードも出てきた場面があったり)少し銀河鉄道999へのオマージュかと感じる面もあった。
アスカとレイ(あるいはカヲルも含めて)はシンジにとっての「少年時代の青春の幻影」で、エヴァにおいても重要な電車(列車)から去るのは(漫画版ではなく劇場版)の999のオマージュかと感じた。
ただ孤独に去るのではなく、マリというパートナーがいるからずっと寂しさのないラストであることは確か。

マリ=安野モヨコ シンジ=庵野監督と捉える人も多くいるけれど、そこまでダイレクトに投影させているのかというと少し疑問もある。ただ、安野モヨコさんの存在失くして監督がこのような結末を作れたのかというのも、ちょっと考えにくい。

あと、空から落ちてきた少女と結ばれるっていうのも古の物語へのオマージュのようで、既に「破」の時点でシンジがマリと最終的に結ばれることは示唆されていたのかも知れない。

第八章 碇ゲンドウについて

ラストの2人のことよりも後の章として碇ゲンドウについて語るのは、物語終盤はゲンドウの物語として大きく刻まれた部分があったから。

ゲンドウが人類補完計画を進める動機がユイにもう一度会うことにあるというのは旧作のころから分かるように描写はされてきたものの、シン・エヴァで初めてその心情が吐露された。

ある意味、ここまで世界を巻き込むことをするような動機としてはあまりにシンプルで、旧作含めてこれまではどこか正面切って描くのを避けているようにも感じていたので、ここまでストレートに描いたことに、本当に物語に落とし前を着ける庵野監督の覚悟を感じた。

本編は碇シンジが父であるゲンドウと向き合った時点で、そしてそんなシンジをおそれていることにゲンドウが気が付いた時点で、これまでのシンジの物語はある意味で決着が付いていて、そこからはゲンドウがシンジに向き合うために心をさらけ出すターンに入った。

今にして思うと、旧作と新劇場版のゲンドウは少し違っていると思う。

「破」の時点ではゲンドウなりに旧作よりもシンジと向き合おうとしたと取れる場面がある。綾波からの言われて食事会に行こうとしていたり、ダミーシステムの件でもうエヴァには乗らないと去っていくシンジに対して旧作であった「お前には失望した」という台詞がカットされて、引き止めるまではいかないものの、不器用ながら少し説得しようとしていたとも取れた。

また、旧作と違って赤木親子との肉体関係もなく、より純粋にユイを求めていたと捉えることが出来るし、より心情を吐露する場面が真に迫る。

シン・エヴァのラストにゲンドウは出てこない。

ただ、エンドロールで流れる宇多田ヒカルの『One Last Kiss』と『Beautiful World』を聴いたとき、歌詞に耳をすませるとこの曲はゲンドウの思いを歌った曲だと多くの人が感じたはず。

実際のところ宇多田ヒカルが庵野監督からどういう要望を受けてこの曲を書いたのかは分からないけれど、エヴァと関係ない曲としても成立するし、シン・エヴァを観た人にはそういった想像力を喚起させる素晴らしい曲だと思う。

正直、「序」を観たときは『Beautiful World』は何かエヴァの世界観に合わないななんて思っていたけど、今となってはすいませんでした!と平謝りするしかない。

最終章 あとがき~エヴァは"特別"になったのか~

これまでエヴァについては友人とも(そもそも最近まで旧作の内容ほとんど忘れていたこともあり)それほど多くを語ることなく、ましてや長文の感想を書くこともなかった。

そして今、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観て、思いのたけを語りたくなり今に至る。

今後も(商業的な面も考えると)エヴァのスピンオフ作品は作られる可能性はあるけど、おそらく庵野さんが全面的に関わることはおそらくもうないだろう。それでも自分は楽しみに待つけれど、エヴァにおいてこんなに満足感を得て語りたくなるのは今回が最後だと思う。

自分にとってエヴァは"特別"な作品になったのか

その問いには当然「yes」と答える。

以上


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