ドクカン「教室の亡霊」
まず、読み進める前に”ドクカン”について以下3点お気を付けください。
① 単純にその本の読書感想文+@的なものです。
② もしかしたら+@がメインです。というか「メイン」です。
③ ネタバレ要素満載です。
以上の3点お気を付けください。
ドクカン「教室の亡霊」
著者:内田康夫
出版:光文社
「血は水よりも濃い」
この言葉はこの本に登場する何気ない一言。でもこの一言がこの本を象徴しているように思える。
主人公、浅見光彦が登場する本の内容は基本的に推理小説。つまり作中に誰かが人を殺し、誰かが死ぬ。というストーリーだ。以前noteに投稿した「浅見光彦シリーズ」でも書いてある通り、浅見光彦が登場する小説に無差別殺人は登場しない。理由なく人を殺すシーンは登場しない(よくよく考えてみれば”推理”の名が付く小説なのに理由なく殺されるシーンがあればそれは推理小説ではなくただの事件簿と表すのが正しいのかも)。それだけ”殺人”という行為はあまりにも重い行為なのだ。また当たり前過ぎて文字にするかどうか迷ったくらいだが、”殺人”というのは行為はこの世で一番愚かで醜く卑劣で汚い最低最悪だ。なぜ同じ種である人間の命を奪わなきゃいけないのか。人間以外の動物に聞いても「そりゃヤバイよ」って某芸人みたいに言うことだろう(勿論言葉通じないから聞けないけどね)。
でもそんな行為をしないといけないまでに心を動かされる”感情”又は”動機”とは一体なんだろうと毎回のように思う。そしてその動機はもしかしたら、案外自分の周りにある”些細なこと”から生まれている場合が多いと最近思い始めた。この”些細なこと”は一人称の僕からしたら、休日の朝ごはんを食べるか食べないかぐらいのくだらない”些細なこと”。でも二人称の他人からしたらそれはとても大事なことで、もしかしたら朝ご飯を食べないことだけで僕の人格まで否定されるかもしれない(あまりにも例えが悪い)。
流石に朝ごはんを食べる・食べないだけで人格否定はされなくても、例えばそれが「恋愛」や「宗教」といったその人の過去や人生、人格を作る・担う謂わば”人間の核”の部分を突かれれば人は暴挙に出てもおかしくはない。僕らからしたらほんの小っちゃな”些細なこと”でも、人によっては人生の”核”なのだ。
そして我々はその人が持つ”核”を簡単にイジったり、弄ぶことをしてしまう可能性がある。現にSNSという場は人の過去をイジり、弄び、最終的に人格否定される荒廃した世界を一部作り出している。一昔はその村だけ、その町だけにしか広まらなかったことが今は一瞬で世界に広がる。ある意味人が作り出すコロナウイルスな感染力(影響力)みたいだ。あることないことが飛び回る荒廃した世界。我々が扱うものがどれだけ進化しても、我々人間だけが持つ感情や肉体はそこまで大きく進化しない。
そう思うと現代を生きる我々は少しせっかちに生きているのかもしれない。
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