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1.その気持ちはとても純粋、でもその方法は適切でない

信じがたいことかもしれないが、首都圏(俗にいう通勤圏)に住んでいても、まだ無人駅というものがある。実際、無人駅を使って都心に向かうのだからすごいと思うが、かくいうわたしも自宅からほど遠くない距離に無人駅がある(お察しください)。

さて、2019年11月の早朝、家族が運転する車に乗せてもらい、その無人駅に向かった。さるお人と会うためである。場所はN国際空港。寒い。晩秋、あるいは初冬。ようやく陽がのっぼったくらいの時間帯、オレンジ色の太陽の光がホームに斜めにすべるように入り込んでくる。自分の影が長く投影される。そんな陽ざしのほのかな暖を求めて、電車が来るまでの数分間、ホームの場所をじりじりと移動した。

ふだんは都心へ向かう電車が逆の方向へこうべをめぐらし、のどかな田園や林の中の単線を進む車窓の風景は子ども時分の遠足のようで、年甲斐もなくよろこんでしまう。いつも利用している駅とは違う駅、場所を変え、乗る時間帯を変え、進む方向を変えるだけで、まるで別の風景となるのだから不思議だ。電車の中で、その日初めて会う方とのほどよい緊張感に揺られた。

空港のラウンジにあるタリーズで待ち合わせの段取り。海外の学会をはしごして、ようやく日本に戻ってきて、その日はわたしとの打ち合わせの後、また横浜の学会へ向かうという。まぁ、脂ののった研究者、臨床バリバリの医師、いかにもそんなタイミングの待ち合わせだった。携帯電話が鳴る。空港内にタリーズがもう一か所あり、わたしの説明がわるかったのか、そちらのほうへ向かわれたようだ。無理もない。多忙のなか異国で用事を済ませて空路をめぐり、時差ぼけもあるだろうし、空港のこの場所でといわれて、その通りたどり着ける人のほうが奇特だ。
 
かの人が来た。スーツケースをすべらせながらやってくる。ラウンジを見下ろす場所にあるカフェスペースなので、階段を降り、そして一礼。そのまま階段のうえを示し、資料を並べてあるソファスペースへと導く。かの人の大きな背中が先に進む。厚手のぬくそうなセーターを着て、階段を上るごとにのっそのっそと肩が広がる感じ。思っていたよりがっしりとした体躯。まぬけなわたしはファーストコンタクトの言葉として、「以外と大きいんですね」などといってしまった。「いや、ドクターの方って、ことに本を書いたりする医師は天は二物を与えるというか、ことのほか頭が切れる方が多くて、こじんまりとした背格好の人が多いじゃないですか…」、二の句もひどい。にもかかわらず、この方は穏やかに角をとるような滋味深い接し方をしてくれる。

長くなったが、これがはじめて会った日の大塚篤司医師の第一印象。とにかくこのときのことはよく覚えている。この本はこの瞬間からはじまった。その名も、

マジカルドクター

さて、親愛と敬意をこめて、ドクターオオツカと呼ばせていただく。当時の打ち合わせメモを見ると、コンセプトとして「小学校、中学校のお子さん向けに医療リテラシーを紹介する本。そんな本がないことに気づきました。学校でも医療関連の知識を教える時間はあまりない」とある。ありがたいことにドクターオオツカからわたしにそんな本のお話をいただいたのだ。そのとき、すでに『心にしみる皮膚の話』という話題書を著述しており、SNSの世界でも「SNS医療のカタチ」を通じて、やさしい医療情報の提供を心がける雄姿は際立っていたし、このほかにも刊行間際の本が2冊あり(『世界最高のエビデンスでやさしく伝える 最新医学で一番正しい アトピーの治し方』『本当に良い医者と病院の見抜き方、教えます。 "患者の気持ちがわからない"お医者さんに当たらないために』)、この企画はドクターオオツカの4冊目とのことである。

このお話をいただいたあと、編集部から本の肉付けとなるような大まかな提案(授業形式の本にしましょう…とか)はしたものの、まずは実際に会い、話を聞き、おぼろげでもいいので方向性だけは確認しておく必要があった。前段として、ドクターオオツカは小中学校の子どもたちに出張授業「お医者さんと学校で話そうを不定期に開催しており、そのとき感じ得たことなどから、本書の企画を思いついたという。しかし彼もまだ「この本のコアとなるメッセージを何にするか」まではかためておらず…。要するにそんな邂逅&打ち合わせであった。

ソファに座ったあと、ノートPCで「お医者さんと学校で話そう」のパワポの資料も見せてもらった。子どもたちはなにに関心を示し、どんな反応をするのか。学校の先生方の反応や親御さんたちの感触はどうか。ちなみに当時のメモには編集部ちょいだしの、こんなタイトル案が記されてある。

・『おーつか先生の医(い)い話』
・『お医者さん学校』
・『10歳の君におくる医学の話』(『13歳のハローワーク』っぽく)
・『おーつか先生の医学の時間』
・『子どものうちにしっておくべき医の話』
・ 『医学のご作法』
・『医きかたの話』(生きかた,にかけています)
・『僕とケガとお医者さん』(絵本的,寓話的なタイトル)
・『お医者さんと友だちになる』(絵本的,寓話的なタイトル)

どれもありきたりだが、やむ得まい。だって子ども向けの本ははじめてであるし、その後制作段階で格闘する児童書なるものの壁を、このときのわたしは知る由もなかったのだから。せいぜい自分の意識にあった児童向けの良書は、山崎聡一郎さんの『こども六法』くらいである。

「自分は人に関心があります。だから客観的な情景描写とか、スケッチとかが苦手です。人の情感とか、人の心の機微に関心がいってしまう。なので、相手の心に訴える、何かを残すようなエッセイ風の書き方ならできるかもしれない。」

なんて率直な人なのだろう。しかし医療リテラシーの児童書で、エッセイ風のタッチは難しいかもしれない。

「授業形式はとても賛成です。『こども六法』には「いじめはよくない、だめなんだ」というメッセージが一本通っており、それが子どもたちの琴線にふれたのだと思う。こども六法は法律の大切さを子ども目線で抜粋し、「いじめはよくない」とやさしく解説した本でした。でも医療をテーマとした場合、そのメッセージをどこに置けばいいのか…。」

医療というテーマで子どもたちにシンパシーを抱いてもらう。そもそもそんなことが可能なのだろうか。

「それと、物語性を持たせたいんですよ、この本には。ストリーでもって最終的に読み手の心に響く本にしたい。」

う~ん。病気の話は、基本シリアスだし、例えば、家族やおじいちゃん・おばあちゃんが病気になってしまう、といった話は身近な設定だけど、そういう話は子どもたちにとってシリアスだし、読むのもつらい。それと医療とか、制度の話とか、とびつかないだろうし。…話の接ぎ穂がみつからない。

「Hさんは、子どものころどんな病気をしましたか。僕はずっと、ぜん息だった。」

病気という病気をしたことがなく、自分の家族も含めて、あまり病気でつらい思いをしたことがない、そんな返事をした。すこしドクターオオツカの表情がくもる。

「スイスでがんに効くという水というのがあるそうです(科学的事実に基づくものでなく民間療法として)。その話を聞いた小学生のわたしの娘ががんに罹患しているある知人を心配して、「なら、その水を〇〇さんにプレゼントしてあげたらいいのに」といったんです。それがすごくひっかかっている。その気持ちはとても純粋、でもその方法は適切でない。そこに医者として、何かしてあげられることはないかと。」

あ…(思わず息をのんでしまう)、そういう想い…か。なら、このテーマで子どもたちに届くかどうか。はたして関心をもってもらえるかどうか、そのネーミングからして少しイメージかためだが…。

なら、このメッセージにしませんか。難易度高すぎですが、

標準治療(ひょうじゅんちりょう)。

つまり、いろいろな医師や研究者、患者さんの協力や悲しみの果てにこの言葉があります。少しでもよりよい医療の形を目指して、研究や臨床にアプローチをした結果の集大成、それらの科学的な人間の知恵の成果が「標準治療」。この標準治療にはいろいろ人の願いや想いが込められており、病気でつらい想いをする患者さんやご家族をすくう現在推奨される最善の方法。だから「標準治療」は大切。松竹梅の松なのに「標準」というネーミングはいただけませんが、標準治療大事というのはこの頃だいぶ浸透してきましたけど、まだ学校の授業で、このテーマは扱っていない感じ…ですかね。

「それでいきましょう。標準治療がなぜ大切なのか」

この本は、そのことを子どもたちに届けたいとするところから始まりました。

教えて!マジカルドクター、病気のこと、お医者さんのこと

書影_マジカルドクター

次回に続く。

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