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竹田青嗣に質問した日曜日

2025年1月12日に大阪のNHK文化センターで哲学者の竹田青嗣氏の講演があった。
講演は「私の哲学遍歴──マルクス、ポストモダン、そして現象学へ」と題して、『欲望論』の著者である哲学者・竹田青嗣が竹田自身が歩んできた哲学の紆余曲折の道を振り返るというものだった。

竹田青嗣は77歳らしいが、初めて見る竹田青嗣は、どう見ても10歳は若く見えた。
竹田青嗣は早稲田大学を退職した後、ビジネススクールである大学院大学至善館の教授を務めていたが、そのポストも後輩の西研氏に譲ったらしい。

講演では竹田青嗣の独自の哲学的世界が、いかにして生まれ、どのように発展してきたのか。マルクス主義の受容から、強度の不安神経症に悩まされた20歳代。その治療もあってか一時フロイト思想に心酔するが、そこにも答えが見つけられずポストモダン思想に傾倒したことを語った。ポストモダンではフーコーの考え方や文体が好みだったが、プラトンが批判した相対主義のゴルギアスと同じだとポスとモダンとも決別した。
その頃、西研氏と会い、ヘーゲルやニーチェの読み直しをする。西研氏とは和光大学でいっしょに講座をもっていたらしい。
その後、30歳頃に知ったフッサール現象学を極め、存在と認識の秘密を探る。最後は自身の哲学である欲望論へ。

90分の講演だったが、内容が深かった。竹田青嗣の著書はほとんど読んでいたが、肉声で聞く竹田哲学はまたいろいろ発見があった。
最後の30分は受講者からの質問に竹田青嗣が答える時間だった。


私も質問した。

ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは最近「倫理資本主義」を提唱し、株式会社の取締役会に哲学者が監査や取締役で入るべきだと言い、自らもそのように行動しています。
この考え方はヘーゲルの資本主義国家の捉え直しを述べてきた竹田青嗣先生の考えと近いと思います。
カール・マルクスは生産手段の私的所有が世界の根本問題だと考え、「搾取」こそが世界の根本問題だと捉えました。これは世界を階級カテゴリーで対立すると考える世界観です。
マルクス・ガブリエルや竹田先生は、「搾取」は経済的な一面ではあるが、社会主義の失敗からそれを根本問題とは捉えず、資本主義経済を是としたうえで世界を考えるのだと思います。
そこで質問ですが、竹田先生は資本主義国家や株式会社は具体的にどうあるのがよいとお考えですか?

竹田青嗣はこう答えた。

マルクス・ガブリエルの『倫理資本主義の時代』は先日買ったが読んでいません。
これまで人類の歴史では二つの支配形態しかありませんでした。ひとつはある階級が別の階級を搾取して強制的に分け与える形態。封建制でも社会主義でもその比率は15%の支配階級が85%の被支配階級を統治する専制主義の形でした。そしてもう一つが自由主義の競争社会です。自由主義を捨てると専制主義に戻る。そういう歴史でした。
私が資本主義社会がどうあるべきかと思うか。
大切なのは、「一般福祉」「生のエロス」「生き方の自由」が保障される社会です。人々がどういうことを信じて生きるかという自由は保障しないといけない。一元的な意味に戻ることはできない。「自由」「福祉」「公正」が並び立って進んでいく社会が理想だと思います。
マルクス主義は私的所有を否定し、共同分配を原則とする社会です。しかし、実際には党が分配することになった。マルクス思想の基本は自由ではなく平等原理です。
これについて質問者は追加質問はありますか?

私は「十分です。いえ、満足です。ありがとうございました」と答えた。

後から思うと、株式会社の具体的な在り方について答えてもらっていなかったと思ったが、そんなことを自分で考えてくださいとか言われそうだった。
ヘーゲルの国家論についてももう少しマルクス・ガブリエルとの共通点を聞きたかったが、別の人がこんな質問をしていた。

「全共闘時代後にマルクス批判がさかんになりましたが、ヘーゲルの読み直しをする人は竹田青嗣先生や西研先生のほかにあまりいなかったと思います。それは思想的な怠慢ではないかと思うのです。どうしてそうなったのでしょうか」

それに対して、竹田青嗣はこう答えた。

それは怠慢というより、ヘーゲルが難しすぎるということだと思います。
ポストモダンや分析哲学はヘーゲルを批判していますが、実際にはヘーゲルが言わんとすることを理解していないと思います。
それはヘーゲルの思想や文章がわかりにくいからです。例えば、ヘーゲルの『精神現象学』の主奴論=承認をめぐる生死を賭けた主と奴の闘いというのは、ドイツやヨーロッパの歴史的背景を理解しないとわからない。主人に対する自由の存在承認を賭けた生死をかけた闘いというのは、フランス革命に希望を持って、やがて失望したヘーゲルの心情を理解する必要がある。私たちは全共闘の時代に革命がロベスピエールの専制に変わるようなことを実際に経験した。そういう体験の差もあると思います。

竹田青嗣は講演のなかで、存在論、認識論では、フッサールと後期のヴィトゲンシュタインはいいところまで行った、と語った。

そして自らの欲望論での「現象学的還元」のスキーマとして次の図を示した。

「現象学的還元」スキーマ


聴講者の一人が竹田青嗣に「ソシュールの言語論についてどう捉えていますか」と質問し、それにはこう答えた。

私が言語について語るとき、それはソシュールの言語論をベースにしています。シニファンとシニフィエとかの概念はソシュールと同じ理解です。

竹田青嗣の講演は、ギリシア哲学の中心問題から始まった。
①存在の謎、②認識の謎、③言語の謎
これに対して、プラトンは『ゴルギアス』で存在認識の不可能性を示し、それを批判した。
いわゆる「相対主義批判」だ。

竹田青嗣は、また「三枚目の世界像」ということを語った。
一枚目の世界像とは、親から与えられる子どものころの世界像のことだ。
何をやってもいい、何をやってはいけないということを聞かされ、知らず知らずそれが擦りこまれる。
そして二枚目の世界像というのは最初に世界観として出会うものだ。世界とはこれが真実なのだと思う。それはマルクス主義であったり、キリスト教的世界であったりする。誰でも初めに出会った思想に信を置いてしまう。およそ7割の人はそのまま一生を終える。
しかし、三枚目の世界像に行き当たる人もいる。それはその世界像を読み直して再構築することだ。竹田青嗣はヘーゲルやニーチェなど近代哲学思想を読み直した。

ポストモダン思想は、古代ギリシアでプラトン=ソクラテスが格闘した相対主義と似ている。
それはカンタン・メイヤスーなど今も続いているのだと思う。絶対的だと考えられていた思想や概念を相対化する。今は裏返すと言ったほうが近いかもしれない。

哲学や学問は、真理を追究するものである。
それを諦めたときに、哲学や学問は終わる、と竹田青嗣は語っていた。
しかし、真理に行きつくことはないこともわかっている。けれど、人間は真理を求めて彷徨う。

そのことをあらためて考える講演だった。

講演のあと一番先に『欲望論 第一巻』にサインをしてもらった。
とんでもないミーハーである。

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