ほらふき大輔につかの間夢をいただいた
高瀬甚太
「昨日、ヨーロッパから帰って来てね。来週は中国に行かないといけないんですよ。忙しくて体がいくつあっても足りなくって――」
そうやって愚痴をこぼす。見かけのわりにすごい人だな、と立ち飲み店の中で美濃さんが感心して聞いていると、
「お宅は何をなさっているんですか?」と、その人が美濃さんに聞いてきた。
「わしは植木屋だよ。ヨーロッパどころか大阪以外、どこへも行ったことがない」
美濃さんが皺を深くして笑って答えると、その男、
「植木屋ですか。いいですねえ……」
と言って、「まあ一杯どうぞ」とビールを美濃さんのグラスに注いだ。
「これはこれはどうもどうも」
美濃さんが恐縮してグラスのビールを飲み干すと、男は、
「植木屋もいいですよね。実は私の祖父が植木屋でしてね。私も子供の頃、よく手伝わされました」と懐かしげに語る。
「えっ、お宅のおじいちゃん、植木屋やったんですか?」
美濃さんが驚いて尋ねると、
「ええ、私も子供の頃、おじいちゃんの後を継いで植木屋になろうと思っていたんですよ」
とその男が答える。
「そうでっかぁ、でもならんでよかったですなあ。今はいろんな国を飛び回る社長さんなんですから」
美濃さんがそう言って褒めると、男は、いえいえと首を振って、
「世界を股にかけて働くより、植木屋の方がいいですよ」
とため息まじりに言う。
美濃さんは小首を傾げて、変なことを言う奴だなあと思っていると、男は突然、持っていたハンドバッグから名刺を取り出し、
「申し遅れました。私、こういう者ですが」
と言って、美濃さんにうやうやしく名刺を差し出した。
「へえ、これはどうも」
名刺を見ると『木川大輔』と名前があり、肩書きは『すずらんエージェンシー 代表取締役』となっていた。
「すずらんエージェンシーってどんな会社でっか?」
美濃さんが聞くと、木川大輔は、
「兵器から機械機器、果物から生活用品まで何でも取扱っています。この間はイギリスのエリザベス女王に日本の自転車をお届けしましたし、フランスのオペラ劇場には新型の椅子をお届けしました。ロシアのプーチンくんにも日本の乾物をお届けしました」
と平然とした顔で言う。
「エリザベス女王に自転車! オペラ劇場に椅子! プーチンに乾物? 世界を股にかける割には取り扱う商品が……」
美濃さんはわけがわからないといった表情で木川大輔を見た。四十代後半、黒縁メガネをかけているからインテリぽい印象を受けるが、メガネがなければ何となく間抜けの顔に見える。それに世界を相手にしているわりには、着ているものはスーパーの安売り商品にも見えるし、腕時計だって千円で売っている倒産商品のようにも見えた。それでも美濃さんは男の言葉を信じて疑わなかった。
「お宅の名前は……?」
木川大輔に名前を聞かれた美濃さんは、「わしぁ、美濃だが」と応えると、大輔は、
「美濃さんは今、おいくつですか?」と聞いた。
「六十五歳じゃが」
「いいですねえ。植木屋を引退したら私の会社へ来ませんか? 植木屋の感覚でバイデンくんや各国の大統領、首相に環境グッズを提供するんです」
美濃さんは驚いた。アメリカの大統領をバイデンくんと呼ぶことにも驚いたが、ロートルの自分をスカウトしようとすることに驚かされた。
「わしが世界を股にかけるんでっか?」
思わず美濃さんは問い返した。
「長年かかわって来た植木屋の感覚で世界に日本の環境グッズをアピールするんです。きっと素晴らしい成果を上げられると思いますよ」
そうか――。俺も世界の美濃になるのか。美濃さんは大輔の話を聞いて思わずニンマリ微笑んだ。
えびす亭で大輔にスカウトされ、その気になった美濃さんは有頂天になって、その夜、家に帰って妻の亀さんに言った。
「かあちゃん、ようやくわしのことを認めてくれる人が現れよった」
美濃さんの奥さん、亀さんは相手にしなかった。それを見て、美濃さんは憤慨した。
「こらっ亀、わしの話をよーく聞け! 今日会った、すずらんエー……、なんやっったか忘れてしもうたけど、そこのやなあ、社長さんが、植木屋のわしの感覚を生かして環境グッズをバイデンくんやプーチンくんに販売したいと言うてやなあ、植木屋をやめて来てくれへんか、と言うんや。どないや亀、いよいよわしの時代がやってきたぜえ」
亀さんは、ああ、アホらし、と言って相手にしなかったけれど、美濃さんは本気だった。本気で大輔の言葉を信じていた。それで一晩考えた。植木屋をやめようか、それとも世界を股にかけて環境グッズとやらを売りに回るか、朝になっても決心がつかなかった美濃さんは、今晩、もう一度大輔に会って詳しい話を聞こうと思った。
美濃さんは植木を伐採しながら、職人仲間の井川さんにスカウトされた話をした。すると、井川さんは、
「美濃さん、それはもしかしたら大チャンスかもしれんで。わしは、前から美濃さんのこと、植木屋で終わるような人ではないと思ってたんや」
と冗談ではなく本気で美濃さんを焚きつけた。それを聞いた美濃さんは、ますます舞い上がってしまった。
仕事を終えた美濃さんは、手洗いもそこそこにえびす亭に急いだ。今日、もしかしたら自分の人生が変わるかも知れない。そう思うと年甲斐もなく武者震いした。
えびす亭に入ると、二十人ほどの客が酒を呑んでいたが、大輔はまだ来ていなかった。美濃さんは、大輔に給料のこと、待遇、英語が話せないこと、大阪弁でもいいのかということ、服は背広でないといけないのか、植木屋の恰好ではだめなのかなど、確かめてみたいことがたくさんあった。
「美濃さん、そわそわしてどないしましたんや」
マスターに声をかけられた美濃さんは、
「実は……」と大輔にスカウトされた話を嬉々として喋った。
それを聞いたマスター、思い切り笑った。
「美濃さん。お喜びのところ悪いですけど、木川大輔はこの界隈でも有名なほらふきでっせ。あいつに声をかけられたやつ、ようけおりまんのや。嘘やと思うたら大輔がきたらみときなはれ。ようわかりますさかい」
マスターの話を聞いた美濃さんは途端に不機嫌になった。
「あの人はそんな人と違う。わしを見抜いてくれた人や。マスター、人間違いしてる」
美濃さんがマスターを攻撃しているところに、噂をすれば影で、木川大輔がやってきた。美濃さんはてっきり木川大輔が自分に会いに来たと思って手を振った。しかし、大輔は美濃さんに気が付かない様子で他の人と話し始めた。美濃さんは「ごめんやっしゃ」と声を上げて大輔に近づこうとしたが、満員だったこともあってなかなか近づくことができなかった。
ようやく近くまでやって来た時、大輔の声が聞こえた。
「いやあ、芸能界の仕事も大変です。昨日は沢口エリカと一緒に呑みましてね」
「沢口エリカてあんた……。キャバレーのホステスやのうて芸能人のエリカでっか?」
「そうですねん。あの子、気が強いけどええ女でしてね。年上が好きや、と言って口説きに来るんですわ。一度ぐらいやったら相手してもええけど、ワイドショーですっぱ抜かれるのもかなわんから、残念やけどと言うて断ったんですわ。しつこいのは藤原紀香です。一度相手をしたおかげでストーカーに遭って……」
「わし、そんなストーカーやったら大歓迎や」
「いやいや、先週は沢口靖子とデートしたんやけど、あの子はよろしいなあ。綺麗で上品で……。嫁はんおらんかったら一緒になるんやけど」
「ヒエーッ! 沢口靖子でっか? 羨ましすぎまんがな」
「芸能プロデューサーはもててなんぼですからね。毎日のようにアイドルたちが言い寄ってきます。AKBの連中にも往生しましたわ。もててもてて……。ところでお宅の名前は?」
「わしの名前は安本ですねん。ここではやっさんと呼ばれてます」
「やっさんですか。あなたなんかドラマの脇役にピッタリですよ。『相棒』とか『ドクターX,』、それに『科捜研の女』……、うーんピッタリや。どうですか。友だちのプロデューサーに紹介しますから役者の道に転向しませんか」
「わしが役者? 歯が抜けて髪の毛の薄い、おまけに出っ歯のわしがでっか?」
「ええ、やっさんは個性があります。その個性を生かして役者の道をすすむんです。もてますよ。綾瀬はるかを愛人にできるかも知れない」
「あ、綾瀬はるかを愛人?」
「お嫌いですか?」
「とんでもない。大好きです。死ぬほど好きです」
「それはよかった。安心しました。では、その気があればご紹介します。その時、はるかも同席させましょうか?」
「その気があるもないも、わし、今、無職で母ちゃんに逃げられて独身ですねん。すぐにでも返事しまっせぇ」
「いや、人生の分かれ道です。ゆっくりじっくり考えてください」
「そうでっかぁ……。ほな、いつ返事したらよろしいんでっか」
「また来ます。その時、返事を聞かせてください」
美濃さんはその話を少し離れた場所で聞いていて、がっかりした顔でマスターを見た。マスターは、美濃さんに近づくと耳元でささやくように言った。、
「ほらふきですけど、悪いやつやおまへんから勘弁したってください」
大輔は帰るまで美濃さんがすぐそばにいることに気が付かなかった。美濃さんはその日、しこたま飲んで家に帰り、女房の亀さんに叱り飛ばされた。
「明日、朝早いんやから早う寝なはれ」
亀さんにそう言われた美濃さんは、やっぱり俺は植木屋でしかないんやなあ、と意気消沈した様子で眠りに就いた。
<了>
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