殺意のマウスピース
高瀬 甚太
1
ボクシングファンの江西みどりに誘われて行った西日本ボクシング新人王の決勝戦で、私は、大会に出場していた一人の新人ボクサーと出会った。
そのボクサーは幼いやさしい顔をしていて、とても激しい闘いを強いられるスポーツをやる選手のようには見えず、思わず大丈夫かなと思ったものだ。その少年のことをみどりは、自分の従兄だと言って井森に紹介をした。
少年はその日、屈強なボクサーたちに混じって、フライ級の決勝戦に出場した。相手は、少年よりも年上で、体格も遙かに大きく頑丈に見えた。
「これは相手にならないな」
試合が始まる前、私がひとりごとのように呟くと、隣に座っていたみどりが怒った。
「先生、丈ちゃんはああみえて強いんですよ。2戦2勝2KOなんですから」
それでも私は、みどりの言葉をうのみにすることは出来なかった。
ゴングが鳴った。少年が勢いよくコーナーを飛び出す。左ジャブで相手の出鼻を牽制すると、すかさず右ストレートを顔面に見舞った。相手が顔面をカバーすると、次の瞬間、少年は相手の左ボディに強烈な右フックをめり込ませた。
試合は1ラウンド持たずに終わった。1分3秒、相手はボディを抱えて蹲るように倒れ込み、そのまま起き上がることができなかった。レフェリーはカウントを途中でやめると少年の片手を勢いよく上げた。3戦目とは思えない素晴らしいボクシングで、少年は決勝の試合に勝利し、西日本フライ級王者となった。
4戦目でフライ級の世界ランカーと試合をした少年は、その試合も7ラウンドKOで勝利した。世界9位にランキングされた少年は、一年で世界王者に挑戦するまでになった。
少年の名前は美咲丈一、花山ジム所属、まだ二十歳の若さで、6戦目で世界戦の切符をもぎ取り、無敗のまま王者挑戦まで上り詰めた。その美咲丈一が世界戦を前にした一カ月前、突然、私の事務所に現れた。次期世界チャンピオン候補の来社に、驚いたのは、みどりだ。
江西みどりは、編集の短期のパートアルバイトとして極楽出版に勤めていた。二一歳のこの女性は、契約期間が過ぎた後も、経営者である私を無視して居座り続けていた。
「丈ちゃんどうしたの?」
みどりが素っ頓狂な声を上げて丈一を迎えた。
1DKの小さな事務所である。私もまたうろたえた。
「この近くにちょっと用があったもので、寄らせていただきました」
丈一が突然の来社を説明すると、みどりが聞いた。
「この近くって、どこへ行っていたの?」
「マウスピースの相談で歯医者へ行っていた」
丈一はそう答えて、旧いマウスピースをテーブルの上に置いた。
「今まで市販のマウスピースを使っていたんだけど、パンチの衝撃に耐えられないのか、ヒビが入ってね、それで歯科医にお願いをして頑丈なマウスピースを作ってもらおうと思って訪ねたんだ」
聞かなくてもいいのに、みどりが、どこの歯医者へ行ったのか、また聞いた。丈一は、商店街の中にある、黒門歯科の名前を上げ、先輩の紹介だと答えた。
「黒門歯科なら腕は確かだわ。歯科医の疋田紀夫さんは、年は若いけど、マウスピースの名人として有名だから、きっといいマウスピースを作ってくれるわ」
みどりが推奨するぐらいだから、よほど有名な歯科医なのだろうと私は思った。
丈一は、明るく爽やかな、好感のもてる男だ。人気抜群で実力もあるのに、決してえらぶらない。これまで一度もダウンしたことがないとみどりから聞いていたが、その通り、丈一の歯は健康で頑丈な歯を持っていた。
――事件が起こったのは一週間後のことだ。
花山ジムの専属トレーナーが急死した。最初は、突然死による急死と思われたが、解剖の結果、死因は毒殺とわかった。自殺、他殺、双方で捜査が進められた結果、他殺が濃厚となり、俄然、騒々しくなった。
テレビのニュースは連日、トレーナーの怪死を特集した。報道によると、トレーナーの名前は岡部道夫、三七歳、美咲丈一のトレーナーをしていることがわかった。
事件の日の詳細がニュースで伝えられた。それによると、トレーナーの岡部は、黒門歯科から届けられた丈一のマウスピースを点検し、丈一にマウスピースを着けさせる前に試そうと思い、口にしたところ、顔色を真っ青にして苦しみもがき始めたということだった。岡部の様子を見て、真っ先に美咲丈一が駆けつけしんだ後、口から泡のようなものを吐いてその場に倒れた。その様子を見て、練習中の選手たちも駆けつけた。
岡部はしばらくそのまま悶絶していたが、救急車が駆けつけた時、岡部はすでに死亡していた。
真っ先に疑いが持たれたのは黒門歯科で、マウスピースを納品する際、マウスピースに毒を盛ったのではないかと、警察が追及した。これに憤慨したのは、みどりだ。
「黒門歯科の疋田さんがどうして、自分の商品であるマウスピースに毒を盛るのよ。疋田さんが岡部トレーナーを恨む理由なんか、どこにもないわよ」
警察が疋田医師を取り調べた理由は、マウスピースに毒を塗るチャンスがあったのは、疋田一人しかないと確信したからだ。しかし、みどりが指摘したように、疋田には岡部トレーナーを殺害する動機がなく、疋田と岡部は、全く面識がなかった。
疋田は、警察に断固として抗議をした。
「マウスピースを製作するものが毒を塗るなどあり得ない。私は自分の仕事に誇りを持っている」
私もそれは同感だった。それに、すぐに犯人とバレる愚かなことをするはずもない。
疋田の嫌疑は完全には晴れなかったが、三、四回の事情聴取のみで終わった。
2
世界戦を目前にした殺人事件に花山ジムは混乱し、挑戦者の丈一の調整はここに来て大きく遅れることになった。
そんな中、陣中見舞いを兼ねて、花山ジムを訪問した。丈一は、練習中だったが、集中力に欠けていることが素人目にもよくわかった。
「大変だったですね。大丈夫ですか?」
丈一を気遣うと、丈一は、
「大丈夫です」
と言い、少し置いて「実は……」と話し始めた。
「先日、岡部トレーナーが亡くなった事件ですが、あれ、本当はぼくを狙ったものだと思うんです」
「どうしてそう思うのですか?」
私が尋ねると、丈一は、
「あのマウスピースはぼくが試合で着ける予定のものでした。何ごとにも神経質な岡部トレーナーは、ぼくが着ける前に、違和感がないか、確かめたと思うのです。世界戦ということもあって、いつもはしないことなのですが、ぼくの代わりにマウスピースを装着して、それで亡くなったのではないかと思います。犯人は、ぼくが装着することを狙って、毒を塗ったのです。ぼくの体調を管理する岡部トレーナーは、常にぼくの身の回りのチェックを怠りませんでした。犯人は、それを知らなかったのだと思います。岡部トレーナーは、ぼくの代わりに殺されてしまったと思われます」
と丈一は悲痛な声を上げて泣いた。
「美咲くんを狙った……。あり得ないことではないですね。でも、誰がなぜ、何の目的であなたの命を狙うのですかねえ」
私の言葉に丈一は首を振った。
「それはぼくにも全くわかりません。ただ、チャンピオンに挑戦が決まってから、嫌がらせとしか思えないようなことが、これまでいくつか起こっています」
「たとえば、どんなことですか?」
丈一は少し考えた後、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「毎朝、3キロのランニングをするのですが、そのコースに思いがけない障害物が置かれていたことがこれまで幾度かありました」
「障害物?」
「ええ、朝が早くて、まだ暗い時間帯に外を走りますからどうしても足元が暗いんですね。コース上に土塊が固まりで置かれてあったり、狭い道では足元にロープが張られてあったりしたことも何度かあります。ひどい時は鋲が蒔かれていたこともありました」
「そうですか。明らかに美咲くんを狙ったとしか思えない、嫌がらせですね」
「他にもあるんです」
丈一は大きくため息をついて再び話し始めた。
「ジムでの練習の帰り、猛スピードで走って来た車に撥ねられそうになったことがあります。数えたらきりがないほど故意としか思えない嫌がらせがずっと続いています」
「それはいつ頃からのことですか?」
「この一カ月ほど前からです。世界戦が近づいて、新聞やテレビで話題になり始めてからのことです」
私は頷きながら丈一の話を聞き、丈一が話し終わるのを待って、
「心当たりは?」
と聞いた。
丈一は大きく首を振って、
「それがないんです。まるでありません。対戦相手のチャンピオンは外国の方ですし、誰かに恨みを買った覚えもありません」
しばらく考えた末に私は、マウスピース製作の技術者、黒門歯科の疋田医師に連絡を取った。
――疋田さんですか。私、極楽出版の井森と申します。今回はいろいろ大変でしたね。私、花山ジムの美咲くんと知り合いなもので、警察とは別にこの事件の調査をしています。それもあって、申し訳ありませんが、少し、お尋ねしたいことがありまして。
――あんな事件が起きて、えらい迷惑をしています。できたら、あまりこの事件には関わりたくないと思っているのですが。
――それはそうでしょう。そうだと思います。ですが、まことに申し訳ありませんが、二、三、ご質問させていただいてよろしいでしょうか。
――どんなことでしょう?
――マウスピースの制作は、疋田先生一人でやられているのですか? それとも何人かで作られているのでしょうか。
――私一人で制作しています。
――今回、宅急便でお送りされていますが、それは美咲くんから、宅急便で送ってくれと依頼されたのでしょうか。
――美咲さんとは、マウスピースが完成したら、ジムの方へお送りしてほしいと依頼されていました。ただ……。
――ただ? ただ、何でしょうか?
――完成前に電話を通じて連絡をもらっています。マウスピースの完成日とジムへ到着する日を教えてほしいと。
――美咲くんからですか?
――いえ、違います。美咲に頼まれたと言ってました。男性の声でした。
――それで教えたのですか?
――はい。教えました。すると、ジムに到着する時間を、その方が指定して来ました。美咲がその時間を希望していると言って。
――わかりました。ありがとうございます。
電話を切ると、丈一が不安げな表情で私に聞く。
「編集長、やっぱりぼくを狙った犯行なのですか? 疋田さんはどう言っていました?」
「美咲くんを狙った犯行であることは間違いないと思う。美咲くんは心当りがないと言ったが、一連の嫌がらせは尋常ではない。犯人は、異常に美咲くんに執着している。しかも、犯人は美咲くんとジムの実情に精通している人間だ」
その日、事務所に戻った私は、原稿を校正中のみどりを呼んで尋ねた。
「江西くん、きみは美咲くんとは子供の頃から親しかったのか?」
「ええ、丈ちゃんは私の叔母の息子なんです。だから子どもの頃から彼をよく知っています。それが何か?」
「実は先ほど、花山ジムを訪ねて、美咲くんから話を聞いた。彼は、岡部トレーナーは自分の代わりに殺されたのではないかと言っていた」
みどりが声を上げて驚く。
「何ですって!?」
「世界戦が近づいてから嫌がらせが続いていたらしい。その極めつけが先日のトレーナーの死だ。あれも美咲くんを狙ったもののようだ。だが、どうしても犯人らしき存在が特定出来ない。動機のある人間が周りにいないのだよ」
「丈ちゃんを狙うなんて……。丈ちゃんに限って人に恨まれることなんかないと思うし、誰がそんなことを……」
「きみは子どもの頃から美咲くんをよく知っていると言ったよね。美咲くんの周辺で思い当たる人物はいないか?」
みどりは少し考えたがすぐに、いやいやと首を振って、否定する素振りをみせた。
「どうかしたのか?」
みどりの様子をみて訊ねた。
「いえ、まさかと思って……」
「まさかとは?」
「一人、心当たりがないことはないのですが、でも、まさかと思って……」
私に促されたみどりは、そのことについて語り始めた。
3
美咲丈一の母はみどりの母の妹で、名を美咲聡子という。丈一とみどりとは従兄になる。
聡子は二四歳の年に電力会社に勤務する七歳上の美咲洋一と結婚し、二年後の春、丈一を出産した。聡子の夫、洋一は四十歳の若さで肝ガンのためこの世を去り、以後、聡子は女手一つで丈一を育てた。
亡くなった夫洋一には三歳年下の弟、公一がおり、洋一が亡くなった後、彼は聡子に接近した。公一は二度の結婚、離婚を繰り返し、今は独り身だった。洋一とは性格も素行もまるで違う公一を聡子は相手にしなかった。そのため一時期、公一は聡子のストーカーになり、つきまとったことがある。
警察が介入してストーカー騒動は治まったが、その頃から公一は聡子を逆恨みするようになった。聡子を中傷するビラを撒いたり、いわれのないデマを流したり、それが丈一にも及ぶようになって、ついに聡子は公一を告訴するに至る。
告訴によって公一は社会的地位を失い、勤務していた広告会社をクビになった。その後、公一は失踪、聡子の前に姿を現さなくなった。
「その公一が怪しいというわけか」
私の問いにみどりは、
「いいえ、わかりません。行方不明になってからずいぶん時間が経ちますから」
と言って否定した。
「だが、こういうことは考えられないだろうか。失踪し、行方をくらましていた公一は新聞などで丈一のタイトルマッチを知り、またぞろ聡子への憎悪が甦った。そこで、タイトルマッチを控えた丈一をターゲットに嫌がらせを開始し、殺害しようとした」
「でも、まさか……」
「原野警部に理由を話して公一を捜査してもらうことにしよう。動機があるのは今のところ彼しかない」
私は大阪府警の原野警部に電話をした。
美咲公一の所在はすぐに判明した。彼は大阪に住み、鶴橋で焼き肉店を経営していた。
原野警部が任意で事情聴取したところ、事件当日、店が休みということもあって、終日日本橋のパチンコ店にいたと話したが、アリバイを実証する者は誰もいなかった。
「確かにあの頃は丈一の母親を追いかけて迷惑をかけました。でも、今はもうすべて忘れました。今さら迷惑をかける気はさらさらありません」
公一はそう答えて明確に犯行を否定した。
公一の事情聴取を終えた原野警部は、その足で私のところへやって来た。
原野警部は、開口一番、私を非難した。
「美咲公一はシロだ。確かに丈一に対する嫌がらせは彼の仕業と考えられないこともないが、殺人を彼の犯行と決めつけるには無理がある。殺害されたのは丈一ではなく、岡部トレーナーなんだからな」
「公一のアリバイは実証出来なかったんですね」
私が確認すると、原野警部は、
「まだ疑っているのか。彼はシロだ。わしの第六感がそう言っている」
原野警部は、公一を事情聴取して、見当違いの聴取と警察内部で非難されたのだろう。怒り心頭の様子で私に迫って来た。
「マウスピースがどのような過程を経て花山ジムに届けられたか調査しましたか?」
「そりゃあもちろん調べているよ」
原野狩警部は黒門歯科から花岡ジムに届けられた経緯を私に説明した
「黒門歯科医院の疋田がマウスピースの製作を終えて花山ジムの美咲丈一宛に宅急便で送ったのが事件の前日、午後3時だった。その際、疋田は丈一の関係者から、送る際は、時間を教えておいてくれと頼まれており、電話をかけてきたその関係者に、マウスピースの到着時間を教えている。
花山ジムに宅急便が届いたのが翌日の午後2時、受け取ったのが橋本というトレーナーで、橋本は届いた荷物の中身をその場でチェックし、マウスピースであることを確認して、ひとまずその荷物をジムの丈一の私物を置くコーナーに置いておいた。
やがて、橋本から報告を受けた岡部トレーナーがやって来て、マウスピースを取り出し、装着の具合をチェックしようと思い着用したのが午後5時半、装着してすぐに岡部は苦しみ始め、やがて死に至った。
一連の流れの中で疑わしき人物は、マウスピースを製作した疋田とそれを受け取って確認した橋本、その現場をみたジム内の人間、午後2時から5時半までの間に毒を仕掛けられることの出来た人物に限られる」
原野警部の話によれば、この時間帯にジムにいたのは全員で十三人、このうち七人が練習生で、一人が丈一、ジムの会長はこの時間帯、ジムにはいなかった。殺された岡部、後の四人は出入りの業者と見学人、出入り業者の二人については名前も業種も確認されているが、見学人については未確認だ。
花山ジムには一般の人もよく見学に訪れる。その場合、特に制限がないため誰でもが気軽にジムに入ることが出来た。事件の日も二人の見学者が訪れ、ジムでの練習を見学している。
一人は二十代の男性、もう一人は中年の男性、どちらもどこの誰であるか確認されていない。警察は、見学者を重要参考人としてとらえ、捜査しているが今を持ってわかっていない。
私は原野警部の話を聞いて、一つだけ疑問に思ったことがあった。マウスピースに毒を塗るにはそれなりに時間もいるし、その用意もいる。また、この日、美咲の元にマウスピースが届けられるということを予め知っておかなければならない。誰がこれにあてはまるのか。しかも衆人環視の中で行わなければならない。
私は首をひねった。天井を見上げ、しばし瞑想し、
「そうか……!」
と声を発した。
原野警部が私の言葉に驚き、椅子からずり落ちそうになる。
「脅かすなよな。何がそうかだ?」
原野警部が怒った。そんな原野警部に私は確信を持って伝えた。
「私は大変な思い違いをしていました。警部、犯人の目星がつきましたよ」
4
『WBB世界フライ級タイトルマッチ 王者サムソン・R・ゴッチVS美咲丈一』
大阪城ホールで行われる予定だった試合は、タイトルマッチを一週間後に控えて急遽中止になった。異例のことであった。
下馬評では五分五分、むしろ若さで美咲丈一が有利とスポーツ紙などで伝えられていて、その注目の会見には、スポーツ関係のみならず一般紙、雑誌関係、テレビなど多数のメディアが押し寄せた。事務の代表、花山会長は、慣れない会見に汗の粒を光らせていた。フラッシュが焚かれ、ライトが照らされた。
「まず、今回の試合を楽しみにしていただいていたボクシングファンの皆様に心よりお詫びを申し上げます。当ジム所属の岡部トレーナーの死について新たな事実が判明し、美咲丈一が容疑者として逮捕されました。事件の背景、本当に美咲が犯人なのか、それは今後の捜査を見守らなければなりませんが、このような事態になったことで、タイトルマッチは中止せざるを得なくなりました。誠に申し訳ございません」
言い終わると花山は深々と頭を下げた。
「会長、本当に美咲が犯人なんですか?」
「美咲はなぜトレーナーを……」
記者から矢継ぎ早に浴びせられる質問を無視して、花山は席を立った。
花山の元に押し寄せる多数の記者たちをガードマンが押しとどめ、ようやく花山は記者たちの質問から逃れることができた。
「編集長、私はまだ美咲丈一が犯人だとは思えないんですよ」
原野警部はそう言って白髪混じりの頭をかきむしった。
「それは私も同じです。彼はこの先、偉大なチャンピオンになりえる人物です。それなのになぜ……。それはファンも同様でしょう」
私は今回の事件を考えるに当たり、当初は美咲を狙った犯行と推理していた。そのため、丈一に恨みやねたみを持つものの犯行と断定したが、犯行の状況を考えるとどうしても無理が出て来る。
制作者の疋田が犯人でなければマウスピースに触れる者は限られてくる。また、当日、マウスピースが届けられることを知っている者となればなおさらだ。そこで初めて私は、美咲丈一ではなく、岡部トレーナーを狙った犯行だったのでは、と推理した。
そこで花山ジム内での岡部と美咲の関係をみどりに調査させた。
「花山ジムは老舗のジムで、今まで世界チャンピオンを三人輩出しています。ジムは盛況で経済的には何ら問題はありませんでした。トレーナーは三人いて、岡部さんはジムでも最古参のベテランで二人のチャンピオンを育てたことをよく自慢していたようです。今回、丈一さんがタイトルマッチに挑戦することになって、急遽、岡部さんが丈一さんを担当することになりました。といっても、これは岡部さんが会長に進言して半ば強引にそうしたようなのですけど……。
丈一さんにはずっとトレーナーを努めてきた橋本というコーチがいるのですが、その橋本さんを押しのけて岡部さんがトレーナーになったことで、ここ一カ月ほど丈一さんと岡部さん、二人の間はギクシャクしていたようです」
みどりの報告を受けた私は、そのすべてを原野警部に伝え、美咲丈一の身辺を慎重に捜査するよう依頼した。
「美咲丈一は本当に素晴らしい選手ですよ。十年に一人、いや三十年に一人の選手じゃないでしょうか。それほど偉大なボクサーが……」
ジムの会長、花山は記者会見の後、そう言って泣いたという。花山もまたボクサーであったが、日本ランキング1位止まりで大成はしなかった。唯一の自慢は、世界チャンピオンまで駆け上がった名ボクサー、早田謙吉と倒し倒されのファイトで引き分けた試合、今でも酒を飲めばその試合をこと細かく話すのが癖になっている。ボクサーとしては平凡な成績しか残せなかった花山だが、ボクサーを育てるコーチとしては無類の才能を発揮した。二人のチャンピオンを生み出し、美咲丈一という原石を発見した。花山にとって丈一は宝物のような存在であった。
美咲丈一が頭角を現したのは、2戦目の音村忠司戦だった。この時まで丈一はごく平凡なボクサーであった。それが一気にブレイクできたのは橋本トレーナーの力が大きかった。橋本は、美咲の左の筋力が異常に強いことを知り、左ストレートを基軸としたボクシングを組み立てさせた。狙い通り、丈一は左ストレート、左フックと左を多用し、次々と対戦相手をノックアウトしてきた。
橋本に絶大な信頼を寄せる丈一は、世界戦も当然、橋本とともに戦えると信じていた。それが試合を一カ月後に控えた、一番大切な時期に突如、トレーナーが岡部に代わった。
ショックを受けた丈一は会長の花山に猛抗議するが、花山も古参の岡部に頭が上がらず、受け入れられなかった。
岡部と橋本には大きな差があった。岡部は橋本と違い、防御を優先させた。対戦相手のチャンピオンが強烈なハードパンチャーであったからだ。だが、橋本と丈一の見解は違っていた。攻めに徹しなければ相手の思うツボになる。幸い相手はスロースターターだ。そこを狙って初回から攻めて相手のタイミングを狂わせる。攻めに勝る防御はない。それが二人の作戦だった。そのためにその練習を繰り返し行ってきた。しかし、岡部は納得しなかった。丈一のパンチ力では太刀打ち出来ないと思っていたようだ。
ちょうどその頃から丈一の身辺で不審な出来事が起こるようになった。特に朝のランニング途中にそれが起こった。
最初、丈一は誰が嫌がらせをしているのか。すぐには思い付かなかった。 ある時、嫌がらせに強い悪意を感じた丈一は、橋本に相談をした。
翌朝から橋本は、丈一のランニングコースに先回りをし、見張ることにした。程なく犯人は現れた。
橋本が捕えた犯人をみて丈一は驚いた。
「おじさん……!」
橋本が驚いて丈一を見た。
「丈一、この男を知っているのか?」
橋本に捕えられた男は、しきりに顔を隠そうとして下を向く。
「父の弟です」
「えっ……! そんな人がなぜ?」
それには応えず、丈一が言った。
「橋本さん、その人を放してあげてください」
ためらっていた橋本が手をゆるめると、その隙に男は走り去った。
男が去る方向を見つめながら丈一が橋本に言った。
「いいことを思い付きました……」
それが岡部の抹殺だと知って橋本は一瞬ひるんだ。
5
岡部はトレーナーとしては一流だったが、過去の実績に酔いすぎている嫌いがあった。あの時、自分の指導があったから彼等はチャンピオンになれたのだ、そう思い込み、自分の指導力を過信した。過信するあまり岡部はその後、何人もの有望な選手を潰してきた。それを岡部は自分のせいだとは決して思っていなかった。
今回の美咲の件にしてもそうだ。岡部は橋本から手柄を横取りしようとして強引に丈一のトレーナーになった。岡部がトレーナーになってから丈一の調子が低下した。
丈一は焦った。丈一はカウンターボクサーではなかった。ファイターで攻めて勝機をつかみ取るボクサーだ。岡部はそのことすら知っていなかった。
世界戦を前に自信を失いつつあった丈一は、次第に岡部をうとましく思うようになった。橋本はそんな丈一に同情するが、彼としても何ともしようがなかった。
嫌がらせ事件は、結果として公一の仕業だったが、それが丈一にヒントを与えた。
嫌がらせを受けていることを公言し、その犯人を利用して丈一が何物かに狙われているようにみせる。岡部は神経質な男だ。丈一が狙われているとなれば、丈一の身辺に注意するだろう。マウスピースにしても以前ならそこまで気を付けなかっただろうが、彼は送られてきたマウスピースを点検し、念のために着装した。
マウスピースが送られて来た時、まず橋本が受け取った。橋本はそっと包みを開け、わからないようにマウスピースの内側に微量の青酸カリを塗った。青酸カリは、橋本の知り合いが大阪大学医学部の研究室に勤務しており、無理を言ってわずかな量の青酸カリを譲り受けた。そしてマウスピースを元に戻した。
マウスピースの確認に現れた岡部に、橋本は、「これが丈一のマウスピースです」と指し示した。岡部はそれを手に取るといつものようにチェックを始めた。世界戦ということもあって、慎重にチェックした岡部は、それでは足りず口にはめた。
マウスピースを着装した岡部は、その場で呆気なく毒死した。青酸カリは微量ではあったが、岡部の命を奪うには充分な量だった。
橋本も丈一も微量であれば体調を崩して入院するぐらいが関の山と考えていたようだ。だから岡部がもがき苦しみ始めた時は二人とも驚いた。
事件の後、丈一は橋本と話し、どうするべきか話し合った。自首すべきか、それともこのまま黙っているか、結論は丈一が出した。
世界戦を闘ってその後、自首をする。その際、家庭があり、子どもが生まれたばかりの橋本は一切関知しなかったことにする。すべての責任は丈一にあり、丈一が犯人であると決めた。
丈一はタイトルマッチ挑戦に向けて練習を再開した。だが、出版社の編集長である井森が丈一が犯人であることを突き止め、やがて丈一の犯行は警察の知るところとなった。
丈一はタイトルマッチを前にして岡部殺害の犯行の一部始終を自供し、単独犯であることを強調した。
「ショックだわ……」
みどりのショックは想像以上だった。その落ち込みようは傍でみていてもかわいそうな程だった。私はそんなみどりを慰めるようにして言った。
「どうだ。久しぶりに心斎橋の洋食屋へでも行くか」
みどりは無言で応えなかった。いつもなら飛び上がって私の腕にかじりついてくるはずなのに……。
〈了〉