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メンヘラ疲労ちゃん。

 僕はだいたい生きることに疲れている。

 別に希死念慮や自殺願望があるわけじゃない。ただ、疲れている。

 疲れが回復しないまま、スーツを着て、仕事へ行き、次の疲れが溜まり、小説を書き、家事をする……まるでトイレの排水溝に紙が詰まってしまったかのようにカラダの輪郭に沿って疲れが溢れかえっている。

 よくよく考えると、これは不思議な現象だ。

 この疲れがどこから来てどこを由来しているものなのか、実のところは曖昧だった。何をしても疲れている。病気かもしれないと思って、医療にかかったこともあるけれど、いたって健康な20代後半の瘦せぎすの男であることしか分からなかった。

 もっと肉を食えと医者に言われた。そんな会社の同僚と同じ助言しかないのであれば、僕を棺桶のような機械のなかに閉じ込めなくてもよかっただろうに。肉を食ったら何だと言うのだ。疲れなくなるのか? 翼でも生えるのか? 

 分かっている。医者のアドバイスは疲れにくいカラダにするためのアドバイスであり、疲れを感じないカラダにするためのものじゃない。

 疲れとは不思議だ。何をしても疲れる。走っても、歩いても疲れる。日々同じことをしていても、疲れるときと、疲れないときがある。何かしら行動を起こせば結果が出るのと同じように疲れも溜まる。それはまるで、質量保存の法則から解き放たれた宇宙的な存在であるようにも思える。

 つまり疲れとは気まぐれであり、時としてメンヘラ彼女よりも重く、僕の行動を制限してくる。

 そう、僕は疲れている。だから自室のベッドで寝るほかない。せっかくのお休みだ。気になっている映画でも観にいこうかとか、溜まっている家事をやっつけようとか考えてはいたけれど、僕のカラダを支配するメンヘラ疲労ちゃんがそれをよしとしない。

 へー、そうなんだ。わたしよりも映画に行っちゃうんだ。
 家事に時間を割く暇があるんだったらわたしの相手できるじゃん。
 さみしい。一緒にいて。電話して。お願い。声聞きたい。

 メンヘラ疲労ちゃんは、めちゃくちゃ怖いのである。片時も彼女からは手を離すことができない。眠るときだって恋人つなぎである。

 メンヘラ疲労ちゃんが、僕のカラダにまとわりついてくるせいで、まったく布団から動けない。意識は沈んでいるような、浮いているような、そんな微妙な状態。

 布団とメンヘラ疲労ちゃんは相性がいい。夜に潜り込むときはまるで献花中の同棲カップルかのような居心地の悪さを感じるのに、朝になるとたちまち長年連れ添ったおしどり夫婦かのような温もりを感じる。むしろ僕の方が離れがたくなってるのである。

 僕はベッドの上で美しい妄想に耽る。思い返せば、メンヘラ疲労ちゃんは確かに僕の隣にずっといた。生まれたときから一緒だった。近すぎて、いて当たり前の存在だった。兄妹のようにして育った僕とメンヘラ疲労ちゃん。学生時代はべったりで、社会人になって喧嘩もするときも多かったけれど、彼女が心から僕のことを好きであることは知っている。だからこそ離れがたい。こんなに僕を好きになってくれる人はいないんじゃないかなんて思うと、彼女の依存的な行動も愛おしいと思えてしまう。愛を育み、結婚して子どもを産んだら、良いお母さんになったね、みたいな。

 時間さえかければ、良好な関係を構築することができるというのは大変けっこうなことだ。これは僕の妄想で、理想で、疲労という概念を擬人化したに過ぎないけれど、現実はそうもいかない。

 どれだけ手間をかけようが、時間をかけようが、お金をかけようが、プツンと糸が切れたように関係が終わりを迎えることもある。僕はそういう体験をしてきたし、それによって訪れる虚無感というのは、疲労感を助長していく。

 生きていることに疲れた僕だけど、事実はそうではないと知っている。走れば疲れる。歩けば疲れる。それと同じだ。僕らは、運動をしているのだ。生きていることに疲れるのではない。生きるというのは、自身を喜ばせ、そして悲しませる心の運動であり、それはとても疲れるものなのだ。

「ようやく、わたしの気持ちが伝わったの?」

 柔らかく細い女の声だった。ベッドのなか小さな宇宙になって、僕は、段々と無重力へと落ちていく。手先は冷たいまま、背中だけが温かくなる。

 抱きしめてくれる彼女を、探るように伸ばした手は空を切るばかりだった。

 また明日ね、と。
 どこかで笑うように聴こえた。




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