学会でのこと 美術・科・教育・学の危うさ
静岡の学会ですごい場面があったので、備忘も兼ねて書いておく。
学会の理事を今年度から務めさせていただいているのだけど、美術科教育の研究を進めるうえでの倫理規定をきちんと学会で持っているべきだという議論があって、担当の理事が手続きを進めていた。理事会で提案の文面が示され、色々と文言や内容への指摘がされたものの、大筋では規定の整備は必要だよねということで、総会で倫理規定の制定について学会員に諮り、文案への意見を求めることに。そこで出た文言への意見が、研究の根幹にかかわるとんでもないものだった。「先行研究をふまえ」という文言があったのだが、「美学や美術史などは先行研究が重要だが、授業研究など実践ベースのものは、新しさに意味があることもあるのだからその文言は差しさわりがある。」「大学美術教育学会ではそのことを踏まえ、そうした文言は謳っていない。」というような内容。
進行をしていた代表理事が当然「先行研究を踏まえるのは学術研究では当然のことなので」と丁寧に返すのだが、その方は同じことを繰り返す。あまりにもトンデモなので、「新しさが認められるためには、それ以前の前提がなければならない。そうでなきゃ新しいかどうか分からない。研究ではそれが先行研究なのだから、この文言は何の差しさわりにもならない。」と思わずマイクを取って発言したのだが、それでも彼の発言は止まらない。授業研究に取り組む若手の研究者が「新しい取り組みの報告と、新しい研究とは異なる。研究になるためには、先行研究で取り組まれていた内容を踏まえ・・・。他でもやられていた研究と同じようなものが新しい取り組みとして発表されていたりすることも現にある。」と丁寧に話をしてくれて、さらにはベテランの研究者の「信じがたい発言を看過することは出来ない」という発言もあり、トホホな状況になりました。
問題は、創造を奇跡の出来事のように考える美術教育の悪しき伝統が美術教育の研究の場でもいまだに巣くっているということ。「ひらめき」とかね。そして参照の範囲が極めて狭いこと。下手したら自分のアトリエとか自分の市町村とかそんな範囲でしかないのではないかと思う。この業界において「授業研究」と呼ばれているもののほとんどは研究ではない。実践報告に過ぎない。実践報告が不要とか下らないとか言いたいのではなく、それは研究の範疇にあるものではないということ。先行の実践を見たり、調べたりして、その成果と課題を踏まえ、新たな要素を授業に組み込み、実践し、その検証をするという形をとっているものはほとんどない。極端な言い方をすれば、「世界で初めてこういう授業やってまーす」みたいな感じ。もちろんそんな授業はほとんど存在しない。
これは美術教育だけの話ではなく、公募団体を中心に発展してきた日本の美術界ともパラレルの関係にある。制作だって、先行の取り組みを踏まえなければ、新しい表現は生み出しようがない。20世紀以降の美術なんて、取り組まれていない領域探しの試みであったともいえる。その文脈の中で評価もされ、歴史化されていく。これは欧米の話。日本は、そうした文脈を踏まえた新しさの追求よりも、自分から見える狭い範囲の中での「個性」を競う美術の展開をしてきた。公募団体を中心に。そして教員養成系美術教育で力を持ってきたのは公募団体の構成員。自分の所属する団体の美的文法を踏まえ、その狭い世界の中で「いい絵になってきたねぇ」なんてお偉い先生が評価して、入選、会友、会員、審査委員と出世していく仕組み。だから日本の近代美術は、西欧で成立した制度を表面的に受容して、根本的な原理をほぼ理解しないまま発展してきてしまった。だから先行研究なんて重要ではなく、狭いムラの中での優劣、個性の競い合いで終始する。そういう人たちの教育を受けた人たちが学校現場で生徒たちを教え、また教員を目指す学生たちを教えてきた。そのことと今回の発言、というか認識は深くかかわっていると思う。
自分が知る範囲で思いついたことをそれなりに頑張って実践すれば、それが価値があるとされてしまうし、自分でもそう思えちゃう。だって周りの人も先行研究・先行実践とか関係なく「いい実践だね」とか「いい絵だね」とかいう人ばかりなのだから。
わが大学でも、「先行研究をどう調査し、そこから何を課題としたのか?」と聞くと、ほとんどの学生が答えられない。それどころか指導する教員から「学生を惑わせるな」とまで言われたことさえある。こういう話をすると「学生たちは分かってるんじゃないの?」という人がいるが、今の子たちは自分でほとんど動かないので、肯定されたらそのままです。世界で初めて抽象画を描いたみたいな制作系の学生の発表とか珍しくない・・・。
日本で美術が義務教育にある根拠を、美術館を税金で運営する根拠を考えれば、上述の「なんとなく感覚的によいもの」を生んだり、眺めたりすることではないのは、いろいろな点から指摘することができるが、根拠を踏まえ、制作にしろ美術教育にしろ取り組まないと、こんなトホホな状況が続くと思う。王様が裸だということに気づかれてしまう前に、きちんとせねばならないと本当に心の底から思う。
ちなみにこうしたトホホな美術理解を温存することに「学習指導要領」は力を貸しています。現状を肯定した上での細かな文言の改変しかしていないので。