美術教育の転換期、かも
美術科教育学会滋賀大会で滋賀大に行ってました。
今回強く感じたのは、美術観に関する世代間ギャップがいよいよ明確化され始めたなということです。多分、旧世代はそのことに気づいていなくて、イライラしてたり、お前らわかってないみたいな捉え方で終わってるのかなと。まだ、年配の先生たちに盲従するタイプは多いですよ、若い人でも。でもね、若い世代の研究が少しずつ変わりつつあるのが感じられ、それは喜ばしいと思います。ただし、残念ながら方法論がなさすぎるという課題はあります。新しいアプローチは、従来の美術教育の中には参照すべきものが少ない。美術教育が社会と関わるものとして強く意識されることが求められている以上、他領域の実践を見て、そこからも学ぶべき。もっと外を見た方が良い。そのことについては、今学会に合わせて出版された美術教育学叢書1号に限定的な話ではありますが、書いています。教育の実践は美術教育は積み上げてきました。今はそれを理論化する冷徹さが必要。ヌルい素敵な言葉を駆使したがるノスタルジーと対峙しないとならないんです。
さて、先ほどLGBTQと美術教育というテーマの発表があったのだけど、「こうやって多様性とか言って、拡がっていくと、従来の美術がなくなっちゃう」みたいな発言をする質問者がいて絶句した。正確には絶句はしてなくて、「それこそがマジョリティの視点で、あなたの言う従来の美術だって作り手は本当は極めて多様であるのに、普通の美術の作り手として乱暴に括っているだけ。これは、その多様さの中に含まれるべき人たちを包摂しようという取り組みであって、女性だとかホモセクシュアルだとか、障害者であるとかで排除されてきたたこと自体がおかしい。」と言ってしまいましたが、多分伝わらなかっただろうな。多様性を標榜する美術ですら何周遅れなんだという状況ですね。その発言者に「こう自分が感じることには問題があるのだろうけど」とか、迷いがあればまだ対話は可能だけれど、「正しい僕の教わってきた美術と違うのは嫌だ!」というのではどうすれば良いのか。画一的な美術観による美術表現の指導もまた、人を大いに苦しめきた可能性を持つということ。そういう研究も誰かやれば良いと思いますね。「美術教育における矯正教育」とかさ。
そして、こうした問題は、群馬大の春原さんの「美術のわからなさ」についての言説を通して、美術が何を指すものとして扱われてきたのかについての考察とも繋がっている。この発表は面白かった。戦後の美術に関する「わかりにくさ」の言説を相当に細かく見ていて、その中から変化を探ろうというアプローチ。引きつづき進めていくようなので、この後も面白そう。私がキュレーションした「現代美術百貨展」も資料で取り上げててくれて嬉しかったですね。さて、先述の繋がってるという話ですが、「絵心」というファジーな単語で、あるいは感性やセンスといった言葉でごまかされ、ひどく狭い限定的な趣味を正当化するシステムとして美術教育は存在してきたとも言えます。つまりは排他的で、排除を通して自己を卓越化することに腐心してきたということ。だから「わからない」ことの方が歓迎されるわけですね。LGBTQの視点が加わることで複雑になる「わからなさ」ではなく、それが加わることで、自分が「わかる側」にいられなくなることへの不快感、不安だと思います。でもね、そのことを近代美術だけが美術の全てと思ってきた人たちは、引き受けるべきですよ。若い人たちを道連れにすることは許されない。
最初に書いたように若い人たちの変化が少し感じられたから期待はしてます。時代にあった教科として変化していくことが、不要なものとして片付けられる前に間に合うかはわからないけど。私も頑張らないといけないですが(^^;)
補足:ジェンダーで書いたうちの学生の学生の発表は、日本の広告業界の炎上案件を分析し、その背景の一つに「感覚的なおもしろさ」あるいは「色と形の素晴らしさ」ばかりを尊重する浅薄なデザインプロセスがあるのではないかという考察をして、その上で、中学校のデザイン教育には新たに求められることとして主題や題材についての社会学的考察があるのではないかというものでした。その例の一つとして、女性の表象を取り上げ、広告におけるジェンダーに関わる問題の議論を整理して、授業で与えるべき視点としてまとめる、みたいな研究でした。
今回聞いたLGBTQと美術教育の発表は、群馬大の茂木先生と学部生の発表で、卒論ベースのもの。なので荒削りではありましたが、若い世代が自分たちのリアルな生活、環境の中からその重要性を見出して研究を始めたのが大事だと思います。4月からは中学校の先生になり、引き続き研究会も続けるみたいで応援したいと思います。
当事者を美術表現に関わらせることで、自己肯定へとつなげ、ある種の救いを与えるという活動と、アート的な表現を通して、この問題を他教科とは異なるかたちで理解するアプローチがまだ整理されてなくて、本当にこれからだと思います。これらも細かくその機能的に分けられるとも思いますが、そのためにはこの問題、課題を複雑に理解することも必要で、頑張ってほしいなと思います。
そう言えば、去年の卒業生で、この群大の学生と近いテーマで卒論書いた学生がいました。その学生は小学校教諭になったのだけど、自分が子供の頃、女の子らしく振舞う、格好をする、絵を描く、というのがどうにも嫌でならなかったという経験を持っていて、その経験を今の子達にさせたくないというのが研究動機だった。彼女が今年の研究室の発表会に来て言っていったのは「学校にいると自分が大事にしてた視点を忘れてしまう。そして他にも色々な自分の持っていない視点を研究発表を通して学べることが本当に大事だと再確認した。来て良かった。」ということ。
大学はそうした場になる必要もある。郡大の茂木先生はそれをやってるし、私もそうでありたい。