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『PARFECT DAYS』を見て

 だいぶ前だが映画館で『PARFECT DAYS』を見た。印象に残ったので、とりとめのない感想をネットに保存しておこうと思う。

 この映画の日本でのキャッチコピー?は、‘‘こんなふうに生きていけたなら‘‘である。主人公の平山の淡々とした、でも少しずつ変化のある毎日の生活のことを言っていると思うが、あくまで私の偏見でこれはナチス時代のことも関係しているのではないかと考えた。なので、‘‘こんな風にヒトラーが生きていけたなら‘‘をテーマにあやふやな感想を記していこうと思う。

 まず映画のエンドロールの時だかの説明文について言及していこうと思う。木漏れ日についてだ。はっきりとは覚えていないが、木漏れ日、今ここにしか存在しないもの的なことが説明されたような気がする。おそらくベンヤミンのアウラの話も関係してくるのではないか。ベンヤミンはナチス時代に、服毒自殺した哲学者と言えばいいのか何なのかはよくわからないが、そういう人物である。複製時代の芸術のついて書物を残した人物であり、アウラについても度々言及している。複製、芸術をコピーできる、同時に多数の人が享受できる時代になり、アウラは複製芸術から衰退していったが、そのアウラを政治に利用する人が現れた。ヒトラーである。なんとなくしか覚えていないが、大衆演説をするときに、ヴァーグナーの曲を流したり、何かと芸術を使って政治を行おうとした人物であることはわかる。ヒトラーはアウラの価値を自分、政治に使おうとしたのだ。

 その点、映画の主人公であるヒラヤマは私から見ると窮屈そうに見える場面もあったが、日々の生活にアウラを求めようとした。正確に言えば、アウラではなく木漏れ日かもしれないが。わざわざ現像しなくてはいけないフィルムカメラで、仕事の昼休みに木々の木漏れ日を実際に撮影したり、古本屋で古本を買って夜寝る前に読んだり、カセットテープを運転する車の中で流したり、どうにか日々の生活に仕事である清掃以外のいろどりを求めている。最後の方の場面でヒラヤマが運転する車の中で音楽をかけて『PARFECT DAYS』と画面に題名が出たが、ヒトラーは大衆に向けて音楽を流して自己陶酔のようにしていたのと比べると、ヒラヤマは車に他人を乗せることもあったが、あくまで自分だけの空間で音楽を流している。カセットテープにジェネレーションギャップを感じたが、ヒトラーのナチス時代はレコード、生の演奏、もしかしてカセットテープ既に存在していた?(それはないかな)だったとすれば(調べないで書いてすみません)そこにも違いがあるのかもしれない。ただ姪はスポティファイ、サブスクサービスを使っていたので、CDでもなくMDでもなく、今の時代のサブスクでもなくやはり前時代的だなと思った。前時代の芸術鑑賞(タブレットでサブスクを見たり今の若者の主流ではないもの)を使っているとすれば、ヒトラーのようにアウラを過度に求めようとしているところはちょっと共通しているかもしれないが、ヒトラーがカセットテープが既に普及している時代に生まれていれば(時代考証していなくてすみません)アウラを政治にそこまで求めなかったかもしれない。

 あとはヒラヤマと女性の関係である。映画の序盤はヒラヤマの周りにはどちらかというと男が沢山いた。掃除をさぼる同僚も男で、トイレにいる機嫌の悪い人も男、迷子の男の子をお母さんが来るまで励ました?時は、お母さんに汚い目で見られるような扱いを受けている。しかしどこからかはわからないが、途中からヒラヤマの女性運がアップする。スナックのママといい感じ?になったり、同僚の彼女に頬にキスされたり、姪が訪ねてきて、ヒラヤマの妹と再会できたり、極めつけは、サボる若い男性の同僚より、有能な女性の佐藤さんが後釜として働くようになったり、なんだか女性が人生に多く現われ始めた。私は女性差別、男性差別にあまり詳しくないので、うまく表現できないが、別に男性が優秀ではないということを言っているのではないということに注意してほしい。現にこの映画の主人公は男性で、黙々とトイレ掃除をするしっかりした人間である。たぶん。ナチス時代は、女性は社会進出を果たしていない時代だったと思う。多分今よりは確実にそういう時代だ。もしヒトラーが元気な女性(表現の仕方が雑ですみません)や、仕事をテキパキとする女性に囲まれていたら、国のためにただ子孫を残していく女性を理想像とすることはなく、女性と男性いかに共存していくかで、戦争のために女性が育てた子供、男性を国家の道具にすることもなかったかもしれない。

 日々の生活に木漏れ日を求めれば、大きな変化が無くても人々はそれなりに満足して生きていけたのではないか。現代のようにネットフリックスやスポティファイなど、人々が安価で簡単に芸術を享受できれば、戦争は起きないかもしれない。私にはこの映画がこのような壮大なメッセージにも感じた。私の考え方の癖、偏見、すぐに何かと何かを結びつけようとする悪いところも入っているが。淡々としたルーティンのような日々にも木漏れ日は存在していて、それをわざわざ戦争などに求めなくていい、政治にアウラを求めなくていい時代が完全に来てほしいなと感じる映画だった。

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