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僕が葛城ミサトを嫌いであり、好きにならなくてはいけない理由

僕は葛城ミサトが好きではない。
詳しく言えば、「シン・エヴァンゲリオンの葛城ミサト」が好きになれない。
もともと僕は葛城ミサトという魅力あるキャラクターは嫌いではなかった。むしろ好きだった。
それがなぜかどうして、あの正義のキャラクター(ゲンドウを悪とするなら)としてシンエヴァで描かれた葛城ミサトが嫌いになってしまったのか?
シンエヴァを映画館で観た後、帰り道も、家に帰ってからも、なぜ自分がここまでミサトさんが好きになれないのか、ぼんやりとはあるものの、その明確な理由は見えてこず、どうも釈然としなかった。
そして数日後、親となんてことはないことは無い会話をしていた時にそれは確信に至った。

「親としての葛城ミサトが嫌いだ」


こんなことを言っていると多くのエヴァンゲリオンファン、葛城ミサトファンに怒られてしまうかもしれない。
しかし、僕はミサトさんのことを好きにならなくてはいけないと思っている。正確に言えば、好きとまではいかなくとも拒絶することをやめなくてはいけないと思っている。
これは、葛城ミサトというキャラクターを僕がなぜ嫌いになり、そして、なぜ好きにならなくてはいけないのかを考えたものだ。

ミサトさんが好きな人がたくさんいる人は重々承知しています。
これはあくまで僕の価値観に基づくものです。



シンエヴァにおける葛城ミサトという「母親」

シンでのミサトさんはどのような人だったのか。
なぜ僕がシンでミサトさんが嫌いになってしまったのか、暫く考えた結果、ここにすべての理由があった。

「シンでのミサトさんは『第2のゲンドウ・葛城博士であるであるから」

父と息子の和解という一面を持つシンエヴァにおいてミサトさんはあまりにも特異な存在だった。
その姿にはゲンドウミサトさんの父親である葛城博士に通じるものがあったのではないだろうか。
そう思うのには2つの理由がある。





1,カジリョウジ(息子)

シンエヴァでは、ミサトさんとそのパートナーである加持リョウジの息子であるカジリョウジ(息子)が登場する。
ここで注目すべきは、なんといっても彼の名前だろう。
父親である加持さんと全く同じ名前である。
また、公開後に放送された『プロフェッショナル仕事の流儀・庵野秀明』では、カジリョウジではなく、「カジシンジ」となる予定であったことが見受けられる。
ではなぜ加持さん、あるいはシンジと同じ名前なのか?
ここでは「ミサトさんが命名した」という前提のもと、考えられる理由(邪推を大いに含むだろうが)をⅠ、Ⅱの二つの観点で示し、それぞれについて僕の思うところを書いていく。

Ⅰ.襲名

襲名とは、親や師匠の名前を継ぐことである。
そして、名を継ぐと同時に「その名前の人が行ってきたことも引き継ぐ」という性質がある。
これは落語や歌舞伎、茶道、華道などにみられるため、しっくりとくる方が多いのではないだろうか。
劇中でカジリョウジ(息子)は紅く染まった大地をもとに戻す研究に携わる一人として描かれている。これは紅い海を青色に戻そうとしていた、WILLEの前身である海洋研究所に関わっていた加持リョウジの意志を引き継いでいる、という解釈を可能にする。

つまり、亡き父親の「意志」を引き継ぐという想いを込めた命名であった。

また、これは「カジシンジ」であった場合にも同じことが言えるだろう。

どちらも希望を連想させる名前となる。


Ⅱ.ミサトさんの2つのコンプレックス


TV版からある設定として、ミサトさんの父親はセカンドインパクトの際にミサトさんを生かして亡くなっている。
また、仕事に明け暮れ家庭を顧みない父親でもあったようだ。
ミサトさんの中にはそんな父親が嫌いだという気持ちと好きだという気持ちが織り交ざりエレクトラコンプレックスという形で存在していたようだ。
(庵野監督も「僕は女性に母親を求めてしまう」という発言をしており、エディプスコンプレックスをもっているようだ。)

(また、余談になるが、ミサトさんは飲酒やカフェインの多量摂取という口唇期障害の特徴とされる性質も持ち合わせている。リツコさんはタバコの多量摂取や母親が愛したゲンドウを彼女も愛するという点で似たもので同士ある。この辺りの設定は庵野監督の「僕はまだ口唇期」発言からも伺える。)

つまり、ミサトさんは父親に対してコンプレックスを抱いていた。
そしてその父の復讐という目的で(この目的はシンエヴァでは払拭されていたようだが)NERVに入社し、出世していく。
その中で仕事熱心で家庭・家族(シンジ、アスカ)を顧みなくなっていくというジレンマに陥る描写もあった。
そして、その中で彼女は加持さんに父親を感じている。
つまり言い方は悪いが、加地さんを「父親代理」としていたのだろう。
もちろん愛する人でもあったのだろうが。

そんなパートナーである加持さんと全く同じ名前を息子に付けている
僕にはここにも父親へのコンプレックスがあるように思えてしまう。



では、「加持シンジ」であった場合はどうなのか。
これはシンジへのコンプレックスからのものだろう。

劇中でミサトさんはシンジの母親代理というポジションにいる。
これは、シンジとリョウジ、二人が写っている写真の構図からも、ミサトさんがシンジのことも息子だと思っているであろうことが分かるだろう。
そんな「息子」が自分の言葉もありニアサーを起こしてしまう。
結果としてシンジに重い十字架を背負わせてしまうこととなり、「母親失格」というコンプレックスがミサトさんには残ったのではないだろうか。
事実、シンでも『私が背負うべきだった』とある。

そして、その後産まれた自分の息子に「シンジ」と名付けている


それでは、それぞれについて何故僕が気に食わないのかを書いていく。

Ⅰ.襲名
先にも書いた通り、襲名には名前だけではなく先人の意志も継ぐという性質がある。
逆に言えば、襲名するということは「責任や責務」を背負わされることにも繋がりかねない。
つまり、本人の意志に関わらずある一定の役割を担う存在として「運命を仕組まれてしまう」ことになりかねないということだ。
僕はこれがどうも気にいらない。
名付けられた瞬間に石を背負って生きる人生は、真に自由だとは思えないからだ。
(ただし、モンゴルなど自分の名に親の名前が組み込まれる文化もあるため否定はしない。)


Ⅱ.コンプレックス


息子に自分の愛した人の名前を付ける。もっと言えばその人の裏には父親の影がちらついている。

ここで、かつての恋人の名を娘に名付ける父親を想像してほしい。
すくなくとも僕は「気持ち悪い」とおもってしまう。
愛する人の名を自分の子供に名付ける行為は褒められたものではないだろうと僕は思う。

また、ゲンドウを思い返してみてほしい。
彼は作中でユイさんがシンジを身ごもったときに「男だったらシンジ、女だったらレイ」と名付けると言っており、ユイさんの肉体の複製に「レイ」と名付けている。つまり、「娘」だという一面を意識している
そしてそのレイの中にユイさんの姿を見ている。
自分の子供に自分のパートナーの姿を重ねている(※)、そういう意味でミサトさんは第2のゲンドウである。(さらに言うと、ミサトさんの場合、無意識に父親も含まれているのではないだろうか。)
ここにあるうすら気持ち悪さは、一方的な近親相姦のイメージを感じるのが理由だろう。

※ゲンドウがレイの中にユイさんを見るのは、レイがユイのクローンのようなものだからだと思う方もいるかもしれないが、遺伝子という観点で言えば、子は親の複製体(クローンのようなもの)であるといえるだろうから、本質的には変わらないだろう。



「母親失格」となったミサトさんが、息子に「シンジ」と名付ける理由。
ここには少なからず「次こそは失敗しない」という、「子育てに失敗したと思っている母親のコンプレックス」があるように思えてしまう。

第一子の子育てに失敗した親が、第二子に第一子と同じ名前を付けるさまを想像してほしい。

それがもし自分の親であったらどうだろうか。
第1子の自分の存在は否定されたと思ってしまうかもしれない。
あまりにもコンプレックスをこじらせているとしか思えないのではないだろうか。



以上が僕が葛城ミサトを好きになれない理由の第一だ。
次からは第2の理由として、「親」とはなんなのかという視点で書いていこうと思う。




2,「親である」ということ


2では、シンエヴァでのミサトさんの息子「カジリョウジ」への在り方から、ゲンドウや葛城博士との共通点も踏まえ、「親であるとはどういうことなのか」という僕の持論をもとに書いていく。

まずは持論を展開するにあたり、ミサトさんとゲンドウ・葛城博士の共通点を洗い出していこうと思う。



作中でミサトさんは、息子であるリョウジと接することを積極的に避けている。
その理由については、
「母親らしいことは何もできないから、一生会わずに、ただWILLEの責任者として子どもをまもる」
というものだった。
そして、そのことが子ども(リョウジ)のためにもなると。

また、シンジに対しても、
「わざわざ私が面会する必要はない」
と言っている。
(これについてはリツコさんに図星を突かれるわけだが)



僕にはこのミサトさんの姿がゲンドウと、葛城博士と重なって見えて仕方がない。

葛城博士については、
『でもほんとは心の弱い、現実から、私たち家族という現実から、逃げてばかりいた人なのよ。子供みたいな人だったわ。』
と、TV版でミサトさんによって言及されている。

ゲンドウについては、シンの中でも
『会わないこと、それが子ども(シンジ)のためにもなると信じていた』とある。
旧では
『俺がそばにいるとシンジを傷つけるだけだ、だから何もしない方がいい』と。
しかし、それもまた自らの弱さからくる恐怖から目を背けるため「理由」ではなく、「口実」だったのだろう。

これを踏まえてシンでのミサトさんを思い返してほしい。
逆に、この二人の父親を見ることで、シンでのミサトさんの心の内というのがある程度見えてくるのではないだろうか。

・「自分には親を名乗る資格なんてない」
・「会うことが怖い、傷つけるかもしれない」
・「その方が子どものためにもなる」


まさにゲンドウが言う
「親を知らない私が親になる不条理」による恐怖。
確かにミサトさんのバックグラウンドを考えると、ミサトさんなりの努力や葛藤があったのだろうが、神視点の観客の目には、皮肉にも「希望」「絶望」、それぞれを担う「ミサト」「ゲンドウ」、二人の親は同一の悩みを抱える者として写る。
ただ、その目的が異なっているというだけで。
まさに、「人間のカオス」を表す描写となっているだろう。



では、ここから「親であること」についての僕の持論をもとに批判をしていく。
この批判の矛先は、ミサトさんだけでなく、ゲンドウや葛城博士にも向くことになる。
この批判に先立ち思い出してほしいのが、シンにおいて重要な役割を果たした、相田ケンスケの『しかし親子だ。縁は残る。』というセリフ。

では、親子における「縁」とはなんだろうか。
「遺伝子」「血の繋がり」いろいろな言葉があるが、まとめてしまうと
「ことばによる定義づけという概念」なのだと僕は思う。

どういうことかと言うと、
「新たな生命が男と女の生殖から生まれた場合、男はその瞬間『父親』となり、女は『母親』となる」
という、ことばによる定義づけが行われるのだろうと僕は思っている。
(その形をとらないものが親子とは言えないという差別的な意味を持たせようとしているわけではない)

つまり、カジリョウジが生命として誕生した瞬間にミサトさんは「母親」になり、碇シンジが生命として誕生した瞬間にゲンドウは「父親」となる。

この関係というのは絶対的なもので、そこに「資格」や「義務」といったものは無いはずだ
ただ、「縁」という絶対的な概念として存在し続けるだけで。
「絶縁」という言葉もあるが、そこで使われる「縁」は社会的なものに過ぎず、根本的な「縁」とは言えないだろう。根本的な縁は、双方が望んだとしても、ましてや片方の一方的な望みでは切れることは無い。
そう考えると、僕には「親となる資格、親を名乗る資格がない」という言葉は、自分が傷つくことを避けるための逃避でしかないように思えるのだ。
親であるという逃れらない縁から、自分の中の親子像と見比べ、その中に存在する「親の責任」というものを口実にし、ただ目を逸らしているだけだろう。


「会うことで子どもが傷つくかもしれない」
これもまた、自分が傷つかないためのものに過ぎないのだと思う。
「他人を傷つけるのが怖いんじゃない、傷ついた他人を見て自分が傷つくのが怖い」のではないだろうか。
しかし、ミサトさんがこう思ってしまうのもわからなくはない。
自身の父親との別れに加え、ゲンドウとシンジという、親子となってしまったからこそ苦しむ姿をシンジを通して一番近くで見てきたのだから。
死ぬ可能性が高い作戦、「もし自分が死んだら、リョウジは、父を失った私と同じ苦しみを抱えることになる」と考えたのかもしれない。
しかし、残酷な物言いであるかもしれないが、これもまたゲンドウと同じ、自らの恐怖が選択の原因となっていることに変わりはない。



「その方が子どものためにもなる」

これも独りよがりな思い込みであったというのは、シンジとゲンドウの関係からある程度分かるのではないだろうか。

庵野監督はかつてある対談でこう答えていたようだ。

対談者
「親子の確執ってことでは、戦いはまだ成立してないですよね。」

庵野監督
「そうです。あやふやです。最終話までとっておいたんです。そこでやろうと思って。」

旧劇場版ではゲンドウからの一方的な謝罪だった。
序破Qでは何度も何度も傷つきながら、シンではゲンドウと和解するシンジが描かれた。
一生会わないままでいた方がシンジは幸せだったのだろうか、そうではないと僕は思う。




ここまででこうツッコミたくなった方もいるのではないだろうか。
「ミサトさんは最後に母親として、子どもを護って亡くなったじゃないか」と。

そう、ミサトさんは
『お母さん、これしかあなたにできなかった。ゴメンねリョウジ。』
というセリフとともに亡くなっている。
確かにこの瞬間、ミサトさんは母親であったのだろう。

ただ、あの最後だったからこそ、「一生会わない」という選択をミサトさんがしてしまったことが酷く悲しいのである。
それは「親子の和解」というドラマがシンジとゲンドウにあったからこそなのだが……。
碇親子はかなり遠回りではあったが、最終的に「対話」を通して和解している。しかし、葛城親子はその「対話」の機会すら得られぬまま別れてしまっている。
ミサトさんがリョウジに何かをしてあげたとしても(命を賭して守ったのだとしても)、それをリョウジが知ることは無い。
受け取るべき相手がそれを受け取れないのなら、それは直接的な関係(ここでは親子)のものとしては残らない。つまり「母親として」というミサトさん側だけのものとして完結してしまう。
母親らしいことができたとしても、それを「子ども」としてリョウジが感じ、受け取ることは無い。それがあまりにも悲しいのだ。
そしてやはりミサトさん自身も、後悔の念は抱いていたと僕はおもう。
もう一度最後のセリフを見てみる。

お母さん、これ『しか』あなたにできなかった。ゴメンねリョウジ

母親となったミサトさんが最後に思ったこと
それは
「もっと息子を母親として愛したかった」
であったのかもしれない……。

これは本当に僕の理想論と妄想で、こうあって欲しかったという願望でしかなく、すべての人がこう思うとは微塵も思っていない。
こう思ってしまうのは僕が恵まれた家庭で育っているからかもしれないとさえ思う。
ただ、「縁」がある限り、「無駄だと思っても話し合うことの大切さ」をシンエヴァが教えてくれたことは紛れもない事実であるとも思うのだ。



お前の親父は生きてるだろ?
無駄と思っても一度は会ってきちんと話せよ、後悔するぞ。





僕が葛城ミサトを好きにならなくてはいけない理由


ここからはなぜ僕が葛城ミサトという人を好きにならなくてはいけないのか、正確に言えば、「自分の価値観と違うから」と拒絶することをやめなければいけないのか、その理由について書いていく。


ここで、急だが
「そもそもなぜ人と人は互いに傷つけあってしまうのか?」
という問いをたててみる。
この答えは、「補完」の在り方と、シンのゲンドウのセリフから見えてくるのではないだろうか。

では、「補完」とはどのようなものだろうか。
それは「すべてが1つになること」
ATフィールドという「心の壁」があるから互いに傷つけあってしまう。そうであるなら、人はそれを取り払って一つになれば苦しむことはないというのが心の補完だった。



ゲンドウはシンで次のようなことを言っている。
「貧富の差も、差別も、虐待も、悲しみも、苦痛もない世界」

これらが意味するところ、それは、
『他者との違い』が苦しみや恐怖の元凶である
ということではないだろうか。

これは価値観の話であると僕は思う。
誰一人として全く同じ環境で育つことは無い。
そうであるなら、人ひとりひとりが異なる価値観を持つのは当然であると思う。
そしてその「違い」が恐怖や苦しみを生み出している。
旧でシンジはその恐怖を受け入れ、「人は分かり合えるかもしれない」という希望とともに現実の世界へと帰還している。


ここでもう一つ大切なのが、綾波レイのこのセリフだろう。
『では、その手は何のためにあるの』

この問いに対するプラスな答えは
「恐怖をうけいれ、他者と手をつなぐため」だろう。

この「手をつなぐ」という行為はシンエヴァで具体的な意味を与えられている。
そう、『仲良くなるためのおまじない』
言い換えると「人と人は分かり合えるかもしれないという希望」
手をつなぐという行為はその象徴となっている。


そして「オチビサンとヤマアラシ」
これもシンで追加された重要な要素の一つだろう。
「ヤマアラシのジレンマ」を解決する方法、それは片方がヤマアラシであることをやめることではないだろうか。
相手がその手を取ることを信じて手を差し伸べることではないだろうか。


人にはその人なりの過去があり、その過去によって形成された価値観をもっている。
現状のその人を理解しようとするとき、必然的に過去についても考える必要性がでてくる。
もっと広くいえば、結果のみにこだわらず、その結果に至るまでの過程を顧みる必要があるということだ。

このシーンでのミドリはそれができなかった人物として描かれている。

そして、あれほど観客が理解できなかったゲンドウの、「過去」も明かされている。
今まで最も理解という言葉からかけ離れた存在であったゲンドウの過去が明かされることで、なぜゲンドウがあのように振る舞い、そしてなぜあのように願ったのかが明らかになった。
シンを見て、初めてゲンドウのことが少し理解できたと感じた方もいるのではないだろうか。


他者の過去を知らないまま、自分の価値観のみで判断するということは、簡単ではあるが、それは同時に嫌なことから逃げ出すことでもある。
『他人も自分と同じだと、一人で思い込んでいたのね』
という綾波のセリフはこれによる結果を指し示している。
人と分かり合うためには、
「自分の目線だけで判断するのではなく、その人のバックグラウンドを知り、その上で自分との違いからくる恐怖を乗り越えて理解しようとすること、手を差し伸べること」
が必要なのだろう。

碇君は分かろうとしたの?お父さんの気持ちを。


しかしここで作品からツッコミが入る。
『アンタ、私のことが分かってるつもりなの?救ってやれると思ってるの?それこそ傲慢な思い上がりよ!判るはずないわ!』

『人は他人を完全に理解することはできない。自分自身だって怪しいもんさ。100%理解し合うのは不可能なんだよ。まっ、だからこそ人は自分を、他人を知ろうと努力する。だから面白いんだな、人生は。』

『だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切るんだ。僕を……見捨てるんだ。』


そう、まさにその通りである。
他者を完全に理解することなんて、てんで不可能なことだろう。
分かり合えるはずだという希望も、自分勝手な思い込みでしかないのかもしれない。

だけど僕はミサトさんを拒絶することをやめようと思っている。
好きになろうと思っている。
理解することを試みようと思っている。
そうしなければ、「他人と分かり合えるかもしれないという希望」は「希望」にもなれないだろう


『希望的観測は人が生きていくための必需品』
であり、
『絶望のリセットよりも、希望のコンティニュー』
を僕は選びたいからだ。
僕はこれこそ、庵野監督が、エヴァンゲリオンが、最後に僕たちに手渡してくれた宿題であり希望なのだと感じる。


希望は残っているよ、どんなときにもね 
ということばとともに。




最後に

まずはここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

最後に少しだけ自分語りをして終わろうと思います。
今回書いた内容は、エヴァンゲリオンと出会うまでは、微塵も僕の中にはなかった考えです。
「人のバックグラウンドを知り、理解しようとすることで、他者と分かり合えるという希望を信じる」
という考えは、僕の大学選びにも影響を与えました。

高3の春、エヴァンゲリオンに出会い、なんとなくで選んだ理系から文転し何とか合格。
今は文系の学部で心理学や倫理学、哲学、社会学を学び、まずは自分自身の形を整え、そののちに文化を学ぶことで他者の持つバックグラウンドを知ることのきっかけにしようと思っています。

ミサトさん、ひいてはエヴァンゲリヲンという閉じられた枠にとどまらず、庵野監督が目指した「外に広がる作品」としてエヴァを受け取りたいからです。

長々と失礼しました。
反論や感想などあれば是非お願いします。
また、誤字脱字、セリフ間違い等あれば教えて頂けると幸いです。
次は第3村と名前と黒波について書こうと思っています。
それでは、最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。


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