仮設した仮説を誰か説明できるのか
こんばんわ神明です。
そして遅ればせながら、開けましたのでおめでとうございました。
考察の交差点に差し掛かったので、ノーティングしてみる事にしました。
※ノーティング=noteに記事をかくという造語
日々ようつべなど見ていると、えらい解剖学者の先生の動画に行き当たることがあります。
その先生曰く。
「人間の体というものの本質は、実は解明されていない。ゆえに病院や医者の言う事のすべてを信頼すべきではない。」
という一説を説いている動画に出くわしました。
医療を否定するものではありませんが、余もこの意見には賛成でして。
というのは、人間のもつ本来の回復力を見くびってもらっちゃあ困るんだでよ先生がた。
例えば。
知らないうちに自覚症状のない病気になっていて、知らないうちに完治しているので、知らないうちに完治の痕跡だけが体内に残っているという場合があるのだそうです。
内臓の疾患の跡だけが残ってるけども、本人はまったく自覚症状もなく快調な体調のままであるという事も多いのだそうです。
これぞ人体の不思議。
さらに、余は3ヶ月入院した経験がありますが、病名を宣告されて「自分は病人なんだ」という自己認定をした場合と「だからどうした?ところがぎっちょん生きている!」という自己認定をした場合では、大きく完治のスピードが違う感じがあります。
余の場合は後者でした。
病室の窓から札幌はすすきののネオンの灯りが、夜空に反射していたのが毎夜見えたので「待ってろよ!必ず返り咲いて、あんな事やこんな事をするのが楽しみだぜっ!くっくっく」と、だいーぶスケべな事ばかりを考えておりました。
スケべは大いなる力なのです。
ところで、再生能力というスキルは人体に等しく備えられているので、その再生能力に全集中して取り組む場合に、真の奇跡というものが起こる場合があるようです。
もちろんこれらは裏付けも根拠もない話です。
ですが、そもそも裏付けや根拠は必要でしょうか?
治ればなんでもいいわけで、お医者さんのアドバイスは頂きながらも、自分の体といかに会話をすることができるかという部分に秘密がありそうです。
そもそも病というものは、体からのサインだと言われて久しいものです。
糖分とりすぎやで、当分のあいだは糖分控えめにな。
とか。
塩分とりすぎやで、円満に生きていきたいなら塩分控えめにな。
など。
控えめにすると、そのうち治るんです。
治らない場合はお薬飲めばよろしい。そのうち治る。
余の母親は脳梗塞で一時は左半身が動かなくなりました。
医者からの宣告は「もう動かないだろう」でした。
だけども、気合いだけでどうにか克服し、自力で歩き、自力でご飯を作れるくらいまで回復しました。
毎年年末に帰省すると、ご飯を作りすぎて困るくらいです。
いいかい。
人というものは、その身体の奥底にとてつもない力を秘めているものです。これは普段の暮らしの中では中々に気付きづらい。
そしておそらく気づかなくてもいい力なのだとも思います。
だけども。
どうしてもどうしてもその力が必要な時が来たら、自らの魂に問いかけてみるがよろしい。
何日も何日も問いかけてみるがよろしい。
その症状を克服できる言葉を、自らの体に言い続けるがよろしい。
これが言葉の持つ本来の力なのだと考えられます。
何も誰かに何かを伝えるだけのモノではないのです。
自らの魂の亀裂に、擦り込むように伝えるべき言葉というものがあるのです。
いいかい。
余は、君が少しでも回復する事を祈っている。
だから君も、自分が少しでも回復する為の言葉というものを自らに問いかけてほしい。
そして、今まで邪険に扱ってきた自分の体に対して非礼を詫びて、今この段階で命があるという事は、まだまだ回復の可能性が大きくあるという事を自覚してほしい。
運命というものは平等ではないのだよ。
依怙贔屓される秘訣は、まず自らを依怙贔屓することからなのだよ。
運命の天秤は、そうやって傾いていくものです。
そして本年も月刊神明をよろしくお願いします。