創作ゲーム その10(大喜利の思い出)
こんにちは。Jinmaruです。
祝“マガジン「その10」達成!
そして、約2ヶ月前に発注したiPadがやっと届きました。
これで漸くGarageBand使ってリズム付の創作活動が可能になります。
無事、届いてくれてありがとう、という前に先ずはiPad納期待ちの間も御老体で頑張ってくれた9年選手のSONY VAIOに御礼を申し上げます。
これでVAIO君はレギュラーではなくなりますが、やっぱりWinマシンでしかできないこともあるので、その際は今後も宜しくです。
さて、今日は前回記事(創作の練習と実地試験)で書いた「大喜利」の記憶について、本来の創作活動ではないので短めに書いておこうと思います。
wikipedia先生から抜粋すると、大喜利とは「司会者の出題に対して、ひねりを効かせて答える、といった言葉遊びゲームの集合そのものを指すことが多いが」と記載されています。
この定義に基づく大喜利の私自身の最も古い記憶は小学校に入学したての一番最初の国語の授業風景です。
自分にとって結構インパクトがあったのでよく覚えています。
その風景はこんなのでした。
国語の教科書に「うみ」という短文がありました。
それは「うみにはいろんなおとがあります」的なやつでした。
そこで先生が「うみにいるとどんなおとがきこえるでしょう」と質問します。
周りが手を挙げます。
「なみのおと!」
「かぜのおと!」
「ふねのおと!」
皆がこぞって手を挙げて順次答えていくという流れでした。
その時、小学校に入学したての私は思ったのです。
「オィオィ、みんなちょっと回答がベタすぎやしないか?」
「そんな想定内の回答は先生の思うツボではないか?」と。
勿論、「ベタ」とか「思うツボ」なんて表現は当時の自分は知らないので、そこは大人になって付け加えた表現です。
それでも明確に覚えているのは、先生が回答して欲しい通りのベタな答えをどんどん回答していく周りのクラスメイト(最初の授業なので未だクラスメイトでも無かったが)を見て、何故か私の方がすごく恥ずかしい気分になって、何とか先生の想定を超える回答を考えなければと焦っていた記憶です。
そうです。私は先生の質問を「大喜利」と受け取っていたのです。
なので、大喜利の回答になっていないベタすぎる回答をする人に「なんて普通の回答をしてるんだろう」と勝手に恥ずかしくなっていた訳です。
いやいや国語の授業なんだから普通の回答が必要でしょうよww
この時点でかなりヒネくれた考えを持ってたんだと思います。
でも、もしこの記憶をポジティブに表現するのであれば、小1最初の時点で創作意欲があったと言うことでもあります(笑)
そして、この「恥ずかしい感覚」というものは今でも仕事で役立っています。
例えば、何かクライアントに提案する際に先方が求めているものをそのまま提案しようとする後輩が居たりします。
そんな提案をレビューする際には「こんな提案で恥ずかしくないの? なんでクライアントの想定を超えるような価値を創造しようとしないの?」とよく指摘したりします。
これ、小1大喜利の「ベタすぎて恥ずかしい」という感覚と全く同じなのです。
まぁ、前回記事で書いたもう一つの実地試験である「公募ガイド」は、今月号も入選してなかったので大喜利云々とか偉そうな事なんて言える立場でも実力でもないのですが。
(公募ガイド、実は今月号は結構自信あったんのに・・・)
本日は以上です。
ではまた近いうちに。