わが子を「かわいそう」と言われてそこから学んだこと
3月5日は、あなたの誕生日。7歳誕生日おめでとう。我が家に生まれてきてくれてありがとう。あなたが生まれてから、それ以前よりも、濃く、本質的でたくさんのことを学びました。その学びの一つをここに記します。
私の5人目の子。彼女の心臓には穴があった。多くの人の心臓はその内側を壁で4つの部屋に仕切られている。彼女の心臓は2つの部屋に分けられていた。
そのため、生後4か月で心臓を手術し、その後、集中治療室生活を経て、長期間、小児科病棟で生活をした。
小児病棟の入院患者には、付き添い入院する保護者がセットだ。我が家では夫婦で3~4日づつの交代で、我が子の付き添いをした。
病院建物の下のフロアに各科の受診外来があり、入院病棟は上の階にある。入院中もレントゲン等の検査の時は、子供をカートに乗せて保護者がそのカートをおして検査室まで連れていく。カートには酸素ボンベを載せてる。そこから繋がっているチューブが子供の鼻の下にテープで固定されていて、チューブの穴から鼻の穴に向かい酸素が常に放出されている。
常に心臓の働きをモニターしている機械のコードが彼女の体についている。ミルクや点滴をぶら下げて移動することもある。
エレベーター内では、外来患者さんやお見舞いの方、病院スタッフ、いろいろな見知らぬ人と同席する。
同席する人の内、何人かの人がカートを見る。大概の人はそのまま視線を流すが、何人かは、カートの中の赤ちゃんに視線が止まる。小さな赤ちゃんにはチューブやコードがついている。
その様子を見た人の数人にかけられた言葉、それが
「かわいそう」
その言葉に私はざわッと、自分の心にさざ波が立つのを感じる。その感じを言葉にするなら怒りだと思う。悲しみが混じった怒りだろうか。
言った人の様子を見ると、やや悲しそうな感情が伺える。人によっては大げさすぎるように見えるくらい悲しみや同情を表してくる人もいる。
どの人にも悪気はないのは感じる。悪気はないどころか、そうすることが良いことだと思っているようにも見えてしまう。
その対極に、「かわいそう」を聞かされた私の気持ちは乱れている。怒りの様な感情。
その感情の発生原因の仮説を立ててみる。
仮説1
「かわいそう」と言う人の中で「赤ちゃん」に対する「期待された像」があり、それを下回っている評価していることが伺えた。ように見えた。
仮説2
勝手に自分で下した評価、それを発言することで、その評価を押し付けてきているように感じた。自分の評価を押し付けないでほしい。しかもネガティブな評価の押しつけは。不幸の押し付けだ。と感じて怒りを感じた。
仮説3
それを言った人は「かわいそう」と同情の意を表現することで、自分をいい人だと思い込もうとしている。ように感じた。
仮説4
私自身が「かわいそう」と言ったり、思ったりすることで、この子が自分のことを「かわいそうな人」にしてしまうことが耐えられなかった。なので、私は「生まれて来てくれてありがとう。」と毎日言っていたのに。何も知らない人がヒョイと横から「かわいそう」なんて言葉、この子に聞かせたことに腹がたった。
仮説5
「生まれて来てくれてありがとう。」毎日言っているうちに本当にそう感じて「かわいそう」なんて思っていないと思っていた自分のはずが、誰かの「かわいそう」という言葉に心乱される。自分がひとかけらも思っていなければ「なんて的外れなこという人だ」と思い、流せてもいいはずなのに。その言葉に引っかかるということは、自分の中に同じように「かわいそう」と思っている自分がいることを感じて、自分にイラ立っている。
今、言語化できる仮説はこんなところだ。
一方で、「かわいそう」が、言われた相手にダメージを与えない場面を考えてみる。
A「Bさん。どうしたの?手に包帯。」
B「一昨日、転んじゃって手をついたら、ぐきーって。で、イテテテテーって。」
A「大丈夫?痛むの?」
B「うん。まだズキズキする」
A「そっかー。かわいそうに。お大事にねー。」
B「ありがとー。」
短期的に治る見込みがあるからこそ、傷を負った本人も
「今は不便な時期」=「その先は普段どおりの生活がある。」と思える。
「かわいそうなのは今だけ」と思えるから、「かわいそうな自分」に甘んじていられる。世間の普通や、以前の自分が感じてた「普通」に比べ劣っている思っていて、それにとらわれている状態が「かわいそうな自分」に甘んじている状態。
しかし、それが今後一生続くと思うような場合。その一見の不便さも自分の一部として、自分の普通にしていく必要がある。
その場合「かわいそうな自分」から、踏み出して、そういう自分がどう生きるか。どう生きたいか。を自分で選択していくことになる。「新しい自分の普通」を作るのだ。
他人はその人のことを知らない。
今の状態が短期的なものか?生涯的なことか?知らない。
「かわいそうな自分」の時期か?「新しい自分」の時期か?
「かわいそう」と言った人に悪気はない。私の子と私のこと気に留めて話しかけてくれたのだ。「こんにちわ」とか「今日はいいお天気ですね。」みたいに言葉自体には、さほどの意味は持たず、つながりのキッカケぐらいのものだ。つながりを感じられれば、それだけで救いになるときもある。そんな感じで、意識的にしろ、無意識的にしろ、相手は声をかけてきてくれたのだ。そう思えれば、その声掛けにも温かさを感じることができる。
相手が投げかけてきたつながりのキッカケに対して、怒り、傷ついたのは自分に経験も余裕もなかったからだ。相手も私も悪いわけではない。
自分も、相手も、傷ついたり、傷つける必要はない。
私は、何度か「かわいそう」と言われる経験をして、そこから学習した。
そして、自分に嘘のない態度でコミュニケーションをとることができるようになった。
見知らぬ人「あら、小さいのにー。かわいそうねー。」
私「いやー。そうでもないですよ。この子は、心臓に穴が開いていましてね。何度も死にそうになったんですよ。でも、こうやって生きててくれて。今、十分幸せを感じさせてもらってます。」
って、我が子に聞こえるように私は言葉をかえす。