色気のある銭湯、改良湯(渋谷区)の話
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タイトル:『はじめの一歩』
わたし(36)
会社員メーカー(丸の内)勤務の場合
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「銭湯の入口はここですかね?」
ネクタイピンが光る“きちんとした”スーツ姿に、少し白髪交じりの男性から声をかけられた。しかもなんと手ぶら。スーツケースを抱えた私とは大違い。
―なんて身軽なんだろう
「この階段はコインランドリーで、銭湯の入口はこの先なんですよ」
「ああ、本当だ。有難うございます。いい湯を」
男性は白い暖簾を発見してさっと姿を消した。
『いい湯を』
本当は私もすぐに暖簾をくぐりたかったのだけれど、ここの券売機はアメニティの種類が豊富。一時帰国の寄り道だから、スーツケースを脱衣所で広げたくない。欲しいものはゆっくり選びたいし、発券機の前でもたついていたら、折角貰ったお洒落な言葉は、渋谷も恵比寿も通り越して、あっという間にまたベトナムへ戻ってしまう。
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明治通りから一本入ると、壁面にめいっぱい描かれた空に向かって泳ぐ大胆で威勢のいいくじらがお出迎え。そんな威勢の良さに、初めて来た時は、後ずさり。でもこのくじら、実はタダものじゃない。私をじらしてじらして、中々なかに招待してもらえない。さすが、空に向かって泳ぐだけはある。
―いじわるな奴め
実は私も、ずっと続く漆黒の壁の先のどこに入口があるんだろうと、経験済み。
階段を登ったり下りたり。あっちこっち、くるくる。くるくる。スーツケースはゴロゴロ。ゴロゴロ。纏わりつく音が、くじらに嘲笑されてるみたいだったのが良い思い出。
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私はネクタイピンの男性が男湯に到着する頃までを見計らって、白い暖簾をくぐる。シャンプーとボディソープは備え付けであったはず。
―ビオレくらい買っておく?!
『沢山これもあれもあるよ!』って券売機は教えてくれたのに、結局私は入浴料とサウナの820円をお支払い。
受付でスーツケースを預けて、タオルと鍵を受け取ったら、私は紫の暖簾をくぐる。
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蛍光灯とブルーライトに慣れ切った私の眼球は、ほの暗く“色気”で溢れた光で満たされる。それから光と一緒にゆるりとした湿度が充満した浴室に、私は一瞬で何度でも恋に落ちる。
―東京って感じ
青みがかった透明な桶と透明な椅子は、カランの前に備え付け。こんなにお洒落な風呂桶と風呂椅子は見たことが無い。少なくともベトナムには無い。カランは固定シャワーとホース式シャワーの両方があるのが嬉しい。入り口そばの棚には受け取ったタオルを収納。
サウナに入るとタオルも貸してもらえるって、なんだか優越感。でもなんていったって、サウナ専用の“鍵”がもらえるのが、私の“私は凄い”を刺激する。
―私はサウナに入れるの!
そう思わないと、私は私を保てない。
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少し熱めの中温風呂は41度。サウナにかかったデジタル時計が目に入るように、やや入口に私は浸かる。壁に背中をぺったりつけて、上を見上げると天井からの光に照らされた湯気がゆらゆら揺れるのが見える。
それはふんわり、白くて上に上に引き寄せられていく。でも全てに光を照らさない。これが、色気の正体なのかも。
―控えめ、が多分ちょうど良い
サウナの上を照らす青い光もまた色っぽくて宇宙みたい。宇宙感を増すデジタル時計に目をやる。私に時間はない。限られた時間の中で、スケジュール管理はいつだって、重要。中温風呂で体温を上げたら左のお隣にある次は炭酸泉。温度は39度。
仕切りで区切られた光の指さない奥の方で、また壁に身を預ける。ややぬるめ。暗めの照明もまた心地良い。炭酸泉は浸かるだけで泡が身体にくっついて、私の腕は泡まみれ。泡にくらいは好かれて良かった。
今日は、6分サウナ、1分水風呂、5分休憩。それが3回出来れば完璧。ぬるめの炭酸泉に揺られながら宇宙への出発準備とタイムスケジュールを整える。
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―人類にとっては小さな一歩だが、私にとっては大きな一歩なのだ
私は宇宙、またの名をサウナの扉に、鍵を差し込んだ。鍵と言っても穴にひっかけて扉が開くもの。このシステムを開発した人は天才だと、毎度感銘を受けてしまう。
遠赤外線の92度。高い段差を昇るために『よっこらせ』と言いたくなる気持ちを抑える。入口から一番遠い二段目の奥に、借りたタオルを敷いて体育座り。ここが私の定位置。一番のホットスポット。
サウナは上段の方が熱くて、限られた時間の私には丁度良い。なんて言ったって高い段差から見下ろす景色は、優雅。心地良いお洒落な洋楽を耳に、私までお洒落になったみたい。
先に座っていたのは線の細い女性。入口に一番近い所で、『高い段差なんて昇れません』っていうような、控えめな感じに人柄が出る。
化粧っ気のなさに幼さもあるのだけれど、口元のほくろのせいか妙に色気を纏っていて後ろ姿も何だか色っぽい。
失礼にならないように、見ないように見ないようにしていたけれど、私の『水風呂イキタイ』と身体がいうタイミングで、表情をチラッとみてしまった。
―やっぱり色気があるなぁ
そんな事するから、2回目のサウナは頭を天井にゴツン。銭湯の神様はよくみてる。
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サウナから徒歩8歩。立ちシャワーは、お湯を流すとシャワーヘッドがカラフルに点灯。スーツケースみたいに重い私の気持ちと汗が、目いっぱい流れていくのを確認。色んな人の想いを、銭湯は流す。
―東京の中心にどうぞ流れてください
立ちシャワーから徒歩14歩。L字型の水風呂の温度も14度。Lの長い方は段差があって奥が深い。そっと段差を降りて、サウナの時みたいに体育座り。水が身体に触れる面積を減らす。
Lの長い方は、はっきり明かりが照らされている。目蓋を閉じてもゆらゆら光を感じるくらい。感覚は研ぎ澄まされて、余計に冷たさが全身を刺す。
足首、手の指先、じんじん。私の身体を穴だらけにして、このままだと蜂の巣になってしまうよう。深く深く、ゆっくりゆっくり呼吸をしていると、だんだん慣れてくる身体。それは“いつもの事”。だから少し、待つ。何を言われても、何があっても、もう慣れた私の身体。
明日は妹の結婚式だから“おめでとう”って顔を作る。“海外駐在してる優秀な姉”って顔を作る。“仕事熱心なキャリアウーマン”って顔を作る。
“ひとりでも、平気”って顔を作る。
―それは、誰の為?
だって、東京で私を待ってくれているのは“くじら”だけだもの。
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明るさが際立つ脱衣所は、大きな化粧鏡がある。流しは別にあるのが良い。私だって最低限は身なりを整えたい。持ち込み用のドライヤーコンセントもある、なんて優しい心づかい。
お洒落な化粧水はベトナムの化粧水には無い粘度が心地いい。私は、それを手に取ってシミとしわがなくなるように、顔に塗り込んだ。明日の戦の為に、今日はもうこの味気ない顔をしたキャンパスに、口紅はひかない。
「あ、すみません」
“チャリン、チャリン”という音と共に、甘い声がする。隣に座っている女性が10円玉を落としてしまったみたい。
身体のラインが分かるニットに、タイトスカート、薄いストッキング、マスカラでさらに強調された大きな目に、とてもよく似合う深紅のリップ。もう乾ききった、サラサラのロングヘア―。
「いえいえ、どうぞ」
私は足元に落ちている10円玉を拾って、もう一度彼女の表情を伺う。
―口元ほくろの彼女だ
「ありがとうございます」
サウナで見かけた幼さはすっかり湯気の向こう側に消えて、完成された色気に変わっている。
彼女は軽く会釈すると、持ち込み用ドライヤーの投入口に10円玉を2枚入れて、マイヘアアイロンで髪の毛をくるんと巻き始める。それは丁寧だけれど手早くて、“いつもの事”のようにサッと終えられていた。
私は最低限のもので済まされた自分の姿に“色気”の無さを感じた。
―彼女の色気はなぜ?
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受付でタオルと鍵を返却。靴箱から既にひんやり外の空気が気持ちいい。
受付で預けていたスーツケースは、心なしか軽くなったような気がする。白い暖簾をくぐって、くじらに当分会えない別れの挨拶をしようと目をやると、口元ほくろの彼女が、シャンとくじらの側に立っていた。
私の時とは違う、なんだかくじらは満足そう。マイヘアアイロンは、あんな小さなカバンにどうやって収納されているのだろう。
―彼女のかばんも宇宙?
呆然とする私の横を通り過ぎる男性。温かい空気を装いに加えた彼は、『いい湯を』と私に言葉をくれたネクタイピンの男性。彼が彼女のもとに駆け寄ると“いつもの事”のように彼女は彼の腕に自分の腕を絡めた。遠くから見ても、満たされているのが分かる。言葉を交わしながら、二人は明治通りの方向へ消えた。
『まだまだ、これからだな。でもまた来いよ』
くじらが私にそう告げるので、まずは明日“マイヘアアイロン”を渋谷のビックカメラで手に入れる事から、始めよう。
そしたら私だって、色気を纏えるかもしれないから。
おしまい
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【銭湯データ※公式サイトより】
改良湯
■住所
東京都渋谷区東2-19-9
駐車場、駐輪場の用意はないそうです
■営業時間
月曜日〜金曜日
15:00〜24:30
定休日 土曜日
日曜・祝日
13:00〜23:00
最終入場は閉店の30分前まで
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