貝塚寺内町の歴史シリーズ「戦国三大武将と貝塚」
戦乱の時代、一向宗の門徒が作り上げた自治都市「貝塚寺内」。町を率いる
卜半斎は、天下統一を目指して迫りくる戦国武将と、どう向き合ったのか。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、全3話の構成で解説。
第3話「徳川家康と貝塚寺内町」
慶長3年(1598)秀吉が没すると、施政の実権は徳川家康に移った。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦において石田三成に勝利した時点で、天下統一を果たしたと言えよう。卜半斎は直ちに伏見に駆けつけ家康と謁見、鉄砲の起源などの話に花が咲き、親交を深めたという。
慶長7年(1602)卜半斎了珍は享年77歳で、波乱に満ちた生涯を終えた。「法の師の教えのままと思う身は、罪も障りもいかに在るべき」辞世の筆跡は肖像画とともに表装され、生前の才徳を今も偲ぶことができる。
後継となったのは、実子の了閑である。徳川家による幕藩体制が整えられていく時代の中で、宗門の指導者というよりも「領主」として貝塚寺内の治世を継続する。慶長15年(1610)自ら駿府に赴き、家康から自らの領主権を認められるとともに、貝塚寺内に対する諸役免除の黒印状を下付され、向後の町の存続と負担軽減が保障されたのであった。
慶長19年(1614)家康は大坂の陣により、豊臣家の滅亡をはかる。これに先立ち家康は、卜半斎に対し火薬の原料となる硝石を用立てるよう要請、さらに文禄3年(1594)にいったん埋められていた町の環濠を再度開削するよう要請した。環濠の開削は、貝塚を大坂城攻略のための支城とするがためである。了閑はこれらを受諾するとともに、戦においても何かと徳川方を支えたことは言うまでもないことであった。こうした功績により、戦後の大坂近辺の豊臣家旧領地については、卜半斎が代官を勤めることとなった。
以降、将軍の代替わりにかかわらず、徳川幕府と貝塚寺内卜半との良好な関係は強固なものとして持続していく。将軍への贈答品として願泉寺に今も残る「水之粉」(はったい粉)製造器具や関係文書は、こうした幕府との親密な関係を示す証拠の品である。「水之粉」は、慶長15年(1610)駿府に持参して以来、家康垂涎の「清涼飲料」として重宝されたという。
一般社団法人貝塚寺内町保存活用事業団 https://jinaicho.org/