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日本語の書籍ばかり読んでいてふと世界の広がりに目を向けて気づいたこと


はじめに


 諸外国で著され、印刷あるいはネットで公開された書物や記事について原文で読むよりも、国内で記されたものを読む機会が多い。自分の専門の学術論文はさすがに諸外国の英文中心。

一方、ニュースや社会情勢を知ろうとすると外国発でもやはり翻訳されたものが中心。世界で起こっている事象の規模や重要度がやはり把握できていないうえに、現実として把握できていない。自国中心に物事がうごいている錯覚におちいりそう。

きょうはそんな話。

世界をみつめる


 いま何が起こりつつあるのか。アジアの端っこにいると、自ら積極的にそんな情報を見つけにいかないと、かたよりが生じてしまう。それはたしかだし、かなり以前から意識していた。そうは思いつつ、しばらくはBBCやニュースウィークなど国内からでもアクセス容易なサイト経由でそういった情報をひろいにいく。

ところが油断するといつのまにか、国内のブラウザサービスに無意識のうちにアクセスしてしまう。その結果、世界のニュースでも国内視点からになる。さらに国内の些末で諸外国ではまったく流れていない国内の話題ばかりのニュースの洪水に飲み込まれてしまう。

視点を細かくすると


 これは国内とておなじ。地元のニュースを中心にとりあげがちな地方新聞。これを単独で読みつづけるとどうなるかは上に書いたこととほぼおなじ。たしかにその地方特有の話題には強いかもしれない。しかし自分のエリア中心に世のなかがうごいているように見えがちに。

大手の通信会社の配信するニュースを地方新聞では逐一チェックを細かくやっているとは思えない。独自の記事ではなくそのまま配信されてくるものをならべているようにしか見えない。おなじことは全国紙に掲載される世界発のニュース記事にも言えそう。世界の名だたる報道機関などで得た情報をどのくらい吟味して掲載しているのか。

視点をひろげると


 そう言いつつもバランスよく世界に目を行き渡らせ、取捨選択して手もとに引き寄せるのは個人では到底不可能。しかるべき編集責任者の方々の複数の目でもってこれは重要だと認識されるものが選ばれてニュースラインに載る。

それらのごく一部をわたしたちは都合のいい時間にちょいとつまんで目にするに過ぎない。目を皿のようにして日がな1日ながめるような作業はふつうはできない。重要なものほど続報が流れ、主要な時刻の報道を定期的に見つづければある程度推移などを追える。できるかぎりは最重要な情報の発端や推移、気になるニュース2、3項目ぐらいは把握しつづけられるはず。

学術の情報は


 自らの専門の分野はどうだろう。これはもう積極的に見つけにいく作業しかない。こうした事項は報道されるわけではないし、つねに出版やネット上にあがるわけでもない。もはやみずからしかるべき場、たとえば定期的に開かれる学会に参加して情報をみつけにいかねばならない。そこでいまなにが話題となり、つぎの課題は何かを見つけにいく。

じつは学会発表される段階とは、ちょっとだけ過去の状態。最先端は包み隠されている、あるいは追試中など。実際には一歩か二歩先に進んでいることが多い。ここで発表してもしばらく周囲は追いつけないだろうというところまで報告するにすぎない。

場合によっては特許申請準備中で触れられないもの(学会発表では手つづきを踏めば一定期間占有権が守られる)すらある。これらは隠れている部分を類推する。それとなく雰囲気で類推できる場合も。思いついて着手してもすでに2番煎じなのはたしか。

おわりに


 なるべくひろいエリアからよりよい情報をみつけて把握する、多くのヒトビトにとり普遍的で重要なものはつねに把握しておいたほうがいい。それはのちにふりかえるとやはり常識として通用するもの。なるべくその価値を先入観抜きにすなおに取り入れて咀嚼する力をもたないといけないとつねづね思う。


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