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大部分の生活上でよくつかうのは小学4年生ぐらいまで学んだ内容でことたりるけれど、そののちの積み重ねの意義とは


はじめに


 ふと高校生や大学生たちをサポートしていて思う。彼らが学校や大学での学びとは。小学生についても30年以上にわたり教えてきた。その内容はさして当時もいまも大まかには変わらない。

小学生のまなぶ内容のほうが日々に果たす役割は生涯にわたりけっこう大きい。中学~大学はその基礎基本をわすれず、のちの生活において滞りなく確実に使えるためにあるといって過言でなさそう。

きょうはそんな話。

小学生のたいへんさ


 中学生~大学生をサポートする機会が多いが、以前は小学生もみていた。前者にくらべ、後者のほうがわたしの教える内容の影響度があきらかに大きい。教えたままほぼおぼえるので、おそらくそのまま生涯にわたりこの方法でつかうと思うと責任の重さを痛感。

高校生を教える以上の緊張感と周到な準備をして、日々小学生たちにむかっていた。教える際のことば選びや漢字について、逐一学年に応じて取捨選択せねばならない。ある意味で教育法としてよりとくべつなもの。慎重にことばを選びつつ接した。

中学生たちは


 それが一転して中学生になり2年生の後半あたりでこちらのふつうに話す内容をほぼつかめている。この発達はほんとうに急速かつ充実度が大きい。からだつきだけでなくこうした脳の発達もめざましい。

それだけに個々におうじた接しかたが求められる。発達のぐあいは生徒それぞれで、見ための体格と相関はなさそう。それぞれが「自分」というものを意識してそれぞれを内に持っている表情を示す。

高校生たちは


 これが高校生を対象とすると基本的にサポート役に徹する。授業というより基礎理解中心、個々の生徒の学習がスムーズにすすむよう相談相手となり助言・はげましの声をかけるなど。

生徒におうじて個性がひろがり多様で興味も多岐にわたる。ほぼ高校生の全教科をひとりで担当しているが、それぞれの個性と照らし合わせ、ある程度の適性が確実にあるとわかる。

とはいえ、あくまでも将来に向けて選択の幅が維持できるように意識しつつ。それでもサポート役のわたしの認識と生徒本人の志望がだんだんと言葉をかわさずともおのずと合ってくるからおもしろい。

進学校では高校2年で文系・理系にクラスなどを分ける。これも生徒によって対応はさまざま。すでに中学の後半あたりからまちがいなく理系だなと思える生徒がいる一方で、とりあえず理系にしたがそののち大学の学部えらびなど進路がなかなか定まらない生徒がいる。

そして大学生


 こうしてなんとか大学にすすむ。いまや同級生の6割はこの段階へ。まちがいなくわたしはふだんどおり大学生の彼らとふつうに話をする。とくに言葉を選んでということはしない。むしろ学生たちの表情を見つつ話すとこちらが発したことばへの応答がわかるので、言いなおしたり言いまわしをかえたりで理解してもらえる。

学生たちが会話において、時間が経つにつれ的確にじぶんの言葉として学術用語の意味を理解したうえでつかい、応答してくる場面に出会えるとやはりうれしい。数年間での彼らの進歩はめざましいものがある。

おわりに


 これだけ広範な学年の児童、生徒、学生たちに接する機会をもててほんとうに惠まれていた。ヒトがひとり立ちして生きていくまでに、こんなに時間をかけて教育はおこなわれる。教育がわたしのしごとのなかでいちばん場所を占めているのはたしか。おかげで報酬を得て生きてこれたのもまちがいない。彼らとの出会いのなかでどれだけ学びのサポートをできたのだろう。

いまもその作業はつづいている。さまざまな経験をつうじてどの部分をささえるといいのかわたしなりに気づきがある。そこを今後はより積極的にやっていこうと思う。


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