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学習で効果を知るにはふだんをよく把握することからはじまるといえそう


はじめに

 きょうは主治医の先生のところに出向いた。すでにCKDと診断されて20数年。先生もわたしもずいぶん歳をかさねた。さて、定期的に血液検査。そのデータをしっかりながめていらっしゃる先生のご様子からあることに気づいた。もしかしてこれは学習の把握方法としても使えるかも。

きょうはそんな話。

病院通いから

 CKDがすすんでいないかチェック。前回の結果などとの種々の項目もふくめていろいろと確認。主治医の先生のうごきをかたわらからちらりとお手もとともに拝見。そこには前回の血液検査の結果や分厚くなったカルテ。

正常値の範囲だったらわたしなどはあっさり安心してしまいがちなもの。ところが先生は前回、前々回の検査の報告書をめくりながらじっくりご覧になられている。いずれも正常値のはずだが…。

先生はおもむろに「うん、数字はうごいていないから…、いいかもね。」とおっしゃる。つまり正常値でも項目よってはひろがりがあるもの。その数字のうごきを前回、前々回とくまなく観察していらっしゃると気づいた。むしろ病状の変化や早期発見にはその数値の変化が情報になるらしい。

学習のようすの把握に

 これとすこし似た報告書をわたしは学習サポートのしごとで目にする。生徒たちの模試の結果報告書。模試が終わりしばらくするとまとめて業者が送ってくる。生徒ひとりひとりにこちらの講評もふくめてわたしていく。

どう扱うかはそれぞれの事業所にまかされている。教師用の情報は微にいり細に入り、じつに綿密なもの。地区での成績の位置づけとともに、場合によっては1問ずつの出来ぐあいまで明示してくれる。

主観と客観

 生徒の過去に受けた模試の結果の推移が客観的なデータとして示される。いつから成績が上向いてきたか、こちらがその生徒の成績上昇にそれとなく気づいた時期とおなじだったとわかるなど興味深い。

こうした情報はよく考えると膨大なもの。コンピュータの支援なくしては得られない。当該生徒の、地区全体あるいは所属中学の同級生たちでの位置づけまであきらかに(もちろん先生のみ閲覧可)。どう読みとるかが試されている。わたしは生徒をはげます意図でそういったデータの一部(当該生徒自身の伸びや位置づけのみ)を活用する。

学習に導くには

 生徒たちはどう勉強したらよいのかわからず迷って学習サポートのこの場に訪れる。生徒ひとりひとりその迷いや悩みはことなる。学力だけでなく気力、体力、家庭環境や状況は千差万別。不振の原因として病気がみつかったこともあった。

迷いのもととなり、からまっていることがらをすこしずつひとつずつほぐしていく。そして模試をまともに受けられる状況までになったら、上に記したようにその結果を生徒に示しつつなにか要素をみつけて励ます。

前向きに

 生徒たちの一部はこうした報告書のたぐいはよからぬことをあらたに伝えられる「よくないもの」「いやなもの」のひとつにとらえがち。それをひとつでもプラス要素をみつけられる、「よいもの」「元気が出るもの」に見かたを変えられるようにしむけていく。

すこしでも前むきにとれるようになれば、つぎの結果はどうだろうと見たくなるものに変えていけて、みずからの成績の変化を直視できるのではと信じてつづけている。

おわりに

 やはり現実は現実。なかにはなかなか結果につながらないことも。それでもちゃんと最後まで集中をきらさないで模試を受けられたのだからと伝える。つぎをがんばろうとつなげられる。

わたしの主観ではなく、あくまでもコンピュータがしめした報告書はだれの言葉でもない。おとなのすることなすこと疑問を持ち、現実を知りはじめる時期の生徒たち。彼らみずからの行動の結果で出てきた情報だからこそ素直に受け入れてもらいやすい。そこをむしろ活用しない手はないとわたしは思う。

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