家計簿を縦にながめていて車とわたしの「燃料」の消費ペースがおなじだと気づいた
はじめに
このところ米の値段が気になる。なるべく収穫期(西日本はとっくにきているが)まではと米をパスタやパンに変えつつしのぐ。その結果、家計簿をみるかぎりはどうにか昨年なみに消費を抑えられている。昨年秋には米以外が高騰したので、ほんとうは一昨年以前とくらべたほうがいいのかもしれない。
それよりも帳簿の数字の意外な関係を知ることに
きょうはそんな話。
数字とにらめっこ
家計簿をみるのは興味深い。数字の羅列はじつにさまざまなことを物語る。記す期間がながくなればなるほどそれらの数字の意味するところに内包される情報は分厚いたしかなものになる。それはまさにわたしの懐ぐあいを知るうえでもっとも有用。
じつに世のなかの経済状況をまともに受けていると感じる。このところの物品の高騰になかば慣れてしまい、ああ、またかとあきらめの境地。自営業の身で、毎月の収入の変動は会社員のようにベアがあるわけでもなんでもない。
どうにかならないかと毎月の各項目にくふうの余地はさらにないかながめていく。外食をせずにもっぱら自炊で病気の食事療法を兼ねつつまだまだくふうの余地はありそう。
車とわたしにかかる費用
先日それらの数字の月末の締めの数字をながめてあることに気づいた。食費のうち米代と車のガソリン代金の両者をくらべると、月々おなじペースで消費している! これは予想外。車はなんとわたし(と両親)を乗せる燃料の減りぐあいが、わたしひとり食べる米を消費するスピードとおなじ。
持ち主と乗りものの「食べもの」のへりぐあいがおなじとは…。ちょっと考えさせられた。年間の金額ベースではどうだろう。車の購入代のほかに駐車場代、2年に1回の車検代、昨年はタイヤを4本とも買い替えたし、税金を毎年払うし…。燃料代のほかにもそこそこかかる。それらをふくめてわたしの食費とくらべると、車のほうがかかっている。
ほんとうはそろそろ車を手放せればと思う。ただし免許を返納し足のおぼつかない両親の病院通いには車の送迎が欠かせない。こればかりはどうしようもない。そこで車を手放した場合の福祉タクシー、レンタカーやサブスクなどの利用を考慮中。
予想されること
車を手放すとなると公共交通機関での通勤に。このままおなじ場所に住みつづけるならばそれは可能。多くの方々と同様、行き帰りにPC、弁当、書物など荷物とともに混雑の車内を覚悟せねばならない。通勤に要する時間はいまの2~3倍を覚悟せねばならない。
両親の病院送迎にレンタカーをつかうならば、手つづきなどで午前の開店とともに借りて郊外の両親のもとにむかい、街中の病院にたどりつきお昼前に診療を受け、そののち食事をがまんしてもらい家にもどり、使ったガソリンを補給してレンタカー店にもどる。午後なかばまでかかりそう。ふたりにつきそうのでその日は昼の食事をとれそうにない。
おわりに
どうやら自家用車をもたずに生活するにはある程度の時間の確保とそれにともなう余分な手間を覚悟しなくてはならない。あるいは要領がわるいだけかもしれない。考えるよりもやってみるとそんなことはないのかもしれないし、はたまた予想よりもたいへんかもしれない。自家用車以上に費用も手間もいまよりもかかるかもしれない。
ほかに手はないかと模索中。
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