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スマホ「ほぼ」なしのわたしとスマホ中心の学生たちとで身のまわりに置くもののちがい


はじめに

 今さらながらに気づいたこと。ことしもそろそろ押しつまり、ふだんテレビを見ないのにネット配信の大河ドラマなどを最後まで見た。こう記す時点でコイツはすでに相当マイナーな部類だなとお思いになられたことだろう。

テレビだけでない。ふだん研究パートで接する学生さんたちといっしょにいるとさまざま気づく。

きょうはそんな話。

身のまわり

 世間のヒトビトを二分するものの見かたをたまにしてしまう。テレビを見る・見ないもそう。すでにわたし自身、テレビの受像機をもたず、ネット配信をほんのかぎられたものだけPCで。もはや見ない部類に移りつつある。

そしてスマホ。これは歴然。遅れて使いはじめた(PHSなどは早かったほうだけど…)せいか。ほぼものごころつく時点からごくふつうに身のまわりにあったであろう学生さんの世代とではもちろん使いかたや頻度に雲泥の差がある。

まわりに反映

 スマホへの依存度は研究室のそれぞれの机まわりのちがいとして現れる。わたしはいちいちスマホは十数秒で画面が暗くなるように設定しているほど使わない。めったにかかってこない電話機として、あるいはなんらかの認証の介在機、もしくはデザリング用のルーターとしての役割でしかない。

やむおえず・しかたなくつかうもの。ズボラなためたびたびの充電がわずらわしくて電池切れしたり、その反動でいつも電源コードを差したまま使いつづけたりした結果、バッテリーを1年たらずで消耗させてしまった。これはむしろ反省点。

身のまわりに

 スマホでなにかを知りたいときに、いちいち手帳型のカバーを開き、起動ボタンを押して画面を明るくして、指紋認証(手荒れでこのところまったく作動しない)もしくはパスワードを入力して、アプリを呼び出し(たいてい更新作業にはいる)とじつに手間がかかる。十数秒はなれるとそのあいだに消えてしまうので、ふたたびおなじ手順でもどる。

ほしい情報にたどりつくまでにじつにストレスがつづく。わずらわしいことこのうえない。そこでかならず机の正面にべつの置き時計が必需品。予定の打ち合わせ時など日時・曜日の確認をしつつやりとりしたい場面などにそなえ、むかしながらの月別カレンダーをかけている。ときにそのなかに予定を書きこむ。

ところがべつのフロアの実験室にはここ数年、その肝心なカレンダーがない。ふだん携帯していない携帯電話(へんな表現だが)なので、なにも日時を確認するすべを持たないわたしはきょろきょろしてしまう。学生さんたちに不便でないのかたずねるときょとんとした顔。「だってスマホがありますから。」とひとりがつぶやくようにこたえた。

すっきりしている

 学生さんたちの机にはわたしが必需品とする時計やカレンダーはない。辞書や筆記具も机上に置いていない学生もいる。それで難なく実験をこなし、ここでなにごともなくすごしている。

モノを置かないで整然としているのはうらやましいぐらい。逆に不便でないのだろうかと、もはやわたしにはふしぎでしかない。そんなにいつもスマホを肌身はなさず持ち歩いているのかと信じがたい感覚に。あんな大きくて重い板きれをいつも携え、わずらわしくないのだろうか。

おわりに

 もはや上のように記すとマイナーな存在というより、もはや「化石」といわれてもしかたないかも。それでも 学習サポートの職場ではカード決済、スマホ決済、さらに暗号資産を用いたブロックチェーン決済などをいち早くとりいれた。ひとつは県下でいちばん早かったといわれたぐらい。ペーパーレス(いただきもののカレンダーはべつですよ)も早かったと思う。

それだけトライしているにもかかわらず、じつは上のようなところは旧態依然でなかなか置き換えられないまま。長年しみついた習慣というのはほんとうに払拭しきれない。


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