
丘の上の山際の昭和中頃の田畑だったところは藪と化してほぼ自然林になりつつある
はじめに
先日ひさしぶりにもとの家のまわりを散歩。丘の上まで歩いた。その道ぞいの山際にあたるところは杉林の手前まで低木と藪に覆われている。その多くはクズなどのつる植物が生い茂る。
踏みこむにしても一歩進むごとにナタをふるわなくては進めないだろう。その多くは平成に入るとほとんどヒトが入らず、そのまま放置。もうしばらくするとさらに高い木々も生えてきそう。永遠にヒトが立ち入ることなくこのまま自然に還っていくのだろうか。
きょうはそんな話。
山道を行く
昨年離れたこの地は限界集落。しかもわたしの両親がこのあたりではもっとも高齢らしい。近々こどももこの地を離れる。せっかく建てた家のあたりは自然災害の危険エリアに指定された。昨今の状況からいつ災害にみまわれるかしれず、離れざるをえない。両親の病院通いの送迎、週2回もとの家でおこなう学習サポートのしごとのために訪れる程度。
昼間空き時間ができたので作業のあいまにひさしぶりに丘のうえまで散歩。この場所でヒトに出会うことはまずない。しかも山際にはまったく畑をつくっている場所はなく、しいたけのホダ木をならべている個所と養蜂家の方が季節になると巣箱を置いている程度。
うらさびしい
この道沿いは鳥のさえずりと風とそれに枝葉をざわつかせる音しかしない。これはいつものこと。すでにこのあたりの十数キロさきまでこんな調子。どこまで歩いてもわびしさは変わらない。
すでにこんな状態になりどのくらいのときが過ぎているのだろう。聞くところによるとこのような状況になる手前のヒトの出入りピークは昭和の中期までらしい。戦前に開拓がすすみこんな上まで段々畑や田んぼが広がっていたらしい。水をどうやって確保していたのか。もっと川の上流から引いていたのか、牛馬で運んだのか。
活気があったらしい
父からその当時の話をよく聞いた。家では牛馬を飼い、いまならばトラクターの代わりとして、ヒトと牛馬が一体となりはたらいていた。わたしが小学生当時この地に帰省すると納屋にいるウシがめずらしかった。
昭和の当時はこの集落の駅に汽車から降りると、あきらかにあちらこちらでこうした家畜を飼っているのだとわかった。一帯の空気がまさにそんなふうだった。それ以前はわたしが想像する以上に集落には若いヒトビトが住み、農業や炭焼きなどでくらしをたてていたらしい。炭などの荷を背に徒歩で峠を越えてとなり街まで売りに行ったらしい。
店々が
家のまわりには雑貨屋と美容室があった。いまはどちらも空き家のまま朽ちつつある。父の若い頃は1軒むこうは酒屋、そしてすこし離れた個所には表具屋など店々があったらしい。あたり一帯でさまざま商売が成立していたことになる。
いまではとうてい考えられない。わずかだがこの集落も住み代わりつつある。ほんの数軒だが新しく住みはじめたかたもいらっしゃる。定年をむかえて越して来られた方や、地元の建設関係の方などやはりこの地にゆかりのある方が多い。
おわりに
はたして50年、100年先。この丘の上のようすはどうなっているのか。このままヒトは減りつづけ、もはやヒトが踏み入ることのないエリアになっていくのだろうか。それを想像するとやはり一抹のさびしさはある。しかし仕方がない。もはや限界集落にほぼ近い。はたしてわずかにのこる若い方々はどうしていくのだろう。
インフラの維持や管理ももはや人員がじゅうぶんとは言えない。連絡しないと山ぞいの電線の垂れ下がりなど大風が吹いたあとなどこちらから連絡しないとだれも気づかないままになってしまうぐらい。近い将来、わたしのように街なかへくらしの場を変える方々が増えるかもしれない。
こちらの記事もどうぞ
広告