日常のごくふつうの生活のありのままを写真に撮る
(2024.1.8加筆)
はじめに
カメラを手にとって40年あまり。たくさんの写真を撮った。こうしたほうがいい、ああしたほうがもっとよくなるとみずからの撮ったものに注文をつけてきた。
最近それももうありのままでいいかと思えた。いいなとかんじた被写体のまま自然に撮れてればそれ以上は望まない。もうひとつの趣味の絵をたしなむほうにその心境がさきにおとずれたかも。写真の方に波及したらしい。
きょうはそんな話。
さんぽのお供
買いなおしてまもないスマホをポケットにいれるか、ミラーレスの一眼レフをリュックに入れて散歩する。ひっこして以来たびたび歩くのにまだはじめてとおる路地がたくさんある。きょろきょろ(もちろん車や自転車に気をつけつつ)しながら見慣れぬもの、あたらしい発見がある。
こんなところで目あたらしいものに出会えるなんてと、まるで観光でおとずれた人物のようにカメラをむけたくなる。たいていまわりにヒトはほとんどいない。おもうぞんぶん携えたカメラを向けられる。
被写体は…
このところふと気づいたがヒトを撮らない。あらたに親しくなる方はそれなりにいるがめったなことでは被写体にしない。もちろん見ず知らずのヒトにカメラを向けることはこの時代ではできないので、街で撮るときには人影に注意しつつ、それよりもほかのものを撮ろうとなりがち。
それでもじゅうぶんおもしろいし、時間はあっというまにすぎていく。しかも興味がむいたらすかさず撮る。デジタルになりフィルムのように枚数を気にせず撮れるのはいい。練習もできる。撮影しておけばよかったよりずっといい。いいなあと思った瞬間こそシャッターチャンス。
絵のほうがさきだった
もうひとつの趣味は絵を描いたり鑑賞したり。こちらがさきに力をぬいて自由に表現する気になれた。するといろいろと想像で描けるようになったからふしぎ。
描きつづけているとだいたいあたまにうかんだ構図のまま紙に移せるように。それ以来、絵を描くことがたのしい。どうも写生よりも空想画のほうがいいのかもしれない。それこそ無心に描ける。うまく描こうとか思わずに手がうごいていく。
それにつづいて写真のほうもだんだんとその心変わりにひきずられるかのように変っていく。いままでレンズをむけたことのない苔むした石ころなども被写体にしはじめた。そういった対象をおもしろいと思えてから、撮すものがそれこそ数かぎりなく身のまわりにころがっていると知れた。
おわりに
絵も写真も創作のせかい。どちらもAIがそれなりにこなせるようになりつつある。それはそれでいっこうにかまわない。だが絵も写真もわたしというヒトが個人でたのしむ範疇ならば、やっぱりじぶんの手でやりたいし、みずからの意思でもって表現したい。
さんぽしながらつらつらそう思った。
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