冬の陽ざしが地面に届く枯野の山に久しぶりに入りふと思う
はじめに
きのう、山のようすを見るためにだれもいない里山に歩いてのぼった。家から山道を歩いて15分ほどの場所。行こうと思えば手前まで車で上がれる。きのうはあえて歩いて行ってみた。
それらの場所はほんの家の目の前といっていい生活圏の端。前年の草木の旺盛な茂りのほとんどはほぼ枯野となり静寂の世界。ようやく落葉して枝だけの姿になった木々の合間から薄い雲ごしの陽が弱々しくさす。
そんな明るい里山の風情をひさしぶりに感じつつ歩いた。
だ~れもいない
日曜日の昼ひなか。だれも好んで休日の冬の里山に近づこうとしない。ときおり遠くの峠道を越えようとする車のエンジン音が手前の山にはねかえりちいさく遠ざかっていく。
しばらくすると今度は海沿いをいく鉄道の気動車のディーゼル音。駅を出発したところだろう。人々の活動がここまでおくれて伝わってくる。
まわりのカラスウリの赤い実などを見ながら坂道をゆっくりのぼっていくとあかるい里山。数百年にわたり山を開墾しつづけようやく段々ばたけにしてきた。ところがその苦労のあともいまでは放棄地に。なごりが枯れ草とともにひろがっている。
ススキやセイタカアワダチソウがめだつ。しばらく歩いてからだがあたたまり風がないので寒さを感じにくい。すこし先へすすむと鬱蒼としたササの林、そしてうす暗い照葉樹林のなか。木々は北寄りの風をさえぎり、ほとんど空気のうごきを感じない。
もう何十年このままなんだろう。そのあいだにここをどれだけの人が行き来したのか。ときおり頭上の送電線と鉄塔の管理のために電力関係の方々が草刈りや枝払いに訪れる以外、人が手を入れた感じがしない。
この場所は以前にもっとふもとのほうにはたけをつくっていたわたしが腐葉土とりによく訪れていた。そのときから時間が止まったままにみえる。あの大きな石も、倒れて朽ちつつある大木もほぼそのまま。
ひとりのいのちの長さとくらべると
帰り山道。山はほぼ変わりないと感じた。時間の進み方がふもととちがう。とてもゆっくり。しかしあきらかに年ごとの自然のいとなみはじゅうぶんに感じられ、とどこおりなく連綿とつづいているのを確認できた。
ひとひとりの人生なんてそれとくらべるとほんの一瞬なんだろうな。歩きながらそう思った。多少の浮き沈みなんて山の自然の営みからすると、とるにたらないなんの変化にも感じられない。でも、ふもとに人々はしっかりその土地に根をおろしてしたたかに生きている。
ぼうぜんとそんなことを考えながら歩いていると、バサッと鳥の飛びたつ音にびっくりさせられる。ぼぅとしてないで用心しろよと山がひと声かけてくれたらしい。
おわりに
山からなにか返事がほしいわけでも得たいわけでもないが、山はそこにどっしり腰をすえてなにもいわずにただただ人の行動を見つめている。そんな感じ。
人によって開発されて山肌はむざんにもけずられ、ずたずたになりながらもなにも言わない。ときおり小さく崩れてそれなりに反応しているのかも。警告かもしれない。
山とのつきあいはうすれてきた。わたしがいなくなってもこのままだろうし、むしろこのままであってほしい。それなりにすがたかたちは変わるかもしれないが、そのときどきの環境に応じながら残っていくと思う。
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