数十年まえに絵に描いた桜の木がいまもまだその公園にあった
(2024.4.8加筆)
はじめに
生まれ故郷をはなれて数十年がすぎる。おとずれる機会はほとんどなかった。ところがひょんなことからその痕跡を知る。
きょうはそんな話。
同窓会で
遠くの大学にすすむため生まれ故郷をはなれた。旅立つまえに小学校のクラスの同窓会に参加。場所は小学校の家庭科室。そこで恩師にお礼をいいクラスメートに別れをつげた。
その帰りだったと思う。学校近くの公園にひとりで立ち寄った。級友たちと冬の日に雪合戦をしたり、すみのたいらな場所で三角ベースをしたり。いまにも声がひびいてきそう。
ひさびさに会ったばかりのなかまたちとの会話を反芻しつつ公園ののぼりくだりの道をあるく。桜は満開。春休みの平日の昼下がり。ヒトの気配はなくしずまりかえっていた。一画をおおいかくすように咲く桜花をしばらく目に焼きつけたのち、それでもたらずにおもわずカメラにおさめた。
新しい土地で
むかう先は父のふるさとのちかくだが、わたしにはなかば見知らぬ土地であり、あらたな出会いの場。まかないつきの4畳半にすみはじめ、大学の授業と5月を待って入部したサークルの活動にいそしんだ。
とびらをたたいたサークルは美術部。はじめて木炭でのデッサンや油絵に挑戦。まず手はじめに「桜を描きたい」とあたまにうかぶ。木々を描くのに興味をもち、たびたびポプラやけやきなど樹形に惹かれる木を中心によくえがいていた。
さて、咲きほこるようすを描くならば1年ちかく待たねば描けない。やむなく手もちの写真から桜をさがす。
油絵で
そしてみつけた1枚がタイトルヘッドの写真だった。描きながらさまざまな想いがめぐる。就職がきまり見習いで3月末からはたらきはじめたHさんを同窓会にさそったが来れなかった。何でも話せた幼なじみ。学校だけでなくそろばん教室でもいつもおたがいとなりどうしの存在。それだけに会ってひと言だけでもつたえたかった。
ないまぜの想いのつまった対象を絵にするのだからとくべつ。油絵ビギナーのわたしにとても絵にこめて表現するのはさかだちしてもとうていできないが、あきらめずに描ききる対象としてふさわしい。
講義や実験のあいまをみてたびたび部室にむかい絵筆をとった。先輩方から助言をもらいつつ修正し作品はようやく完成。
想いをこめる
ふるさとを構成するものひとつひとつになじみ親しんだ形跡が染みこむ。描きながらそう感じた。その系譜を知らないまま絵をみるヒトははたしてどうとらえるのだろう。完成した絵にもらった感想や批評は興味深かった。
その絵の出来不出来よりもむしろその絵をつうじて描いた「わたし」を知ろうとしてくれる。いやむしろそのほうがずっと多いのかも。新入生のわたしがどんな人物なのか知りたい。何に関心があり、どんなふうにものごとを考えるのかとか。絵をつうじて知ろうとしている。
おわりに
じつはこの絵にした桜の木がまだ生きていると知った。すでに20年以上おとずれる機会がない。公園までストリートビューがはいっていけると知った。むかしの記憶をたどりながらすすむと見覚えのある木。「まだここにいるよ。」と言いたげ。
「ああ。」とおもわず声がでた。ひさびさにふるいともだちにめぐり逢ったかのよう。ところどころ幹や枝にそののちの苦労があらわれてはいるが、どうにか生きている。ふたたびこの木から元気をもらえた。
(本記事タイトルヘッドはその公園の桜の木:当時の撮影)
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