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すでに新幹線ができて60年、さまざま節目で利用してきて思うこと


はじめに

 北九州市で育ったわたしは、はじめて新幹線に乗ったのは山陽新幹線が岡山から博多まで延伸されたとき。父と弟といっしょに開通まもない頃、小倉から博多へ遊びに向かった。

それ以来、新幹線の車両は改良されて変わってきたが、修学旅行、大学受験、学会発表、就職活動、旅行など機会あるごとに乗ってきた。思い出や人生の節目とともにあるといっていい。

きょうはそんな話。

友人の家の田んぼごしに

 中学校に進んですぐの頃。小学生の頃とくらべてひとりでバスに乗り遠出しはじめた。転校した友だちのもとに初夏の日曜日に30分ほどバスに乗りあそびに行った。そこは田んぼのなかに開けて間もない新興住宅地。

家のなかよりも当然のごとく広々した田んぼのなかで遊ぶほうをえらんだ。まだ田に水が残り、そのあぜにはちいさなカエルたち。あっさりつかまえられる。それを手にとりながめていた。街なかの団地住まいのわたしにはすでにめずらしい生きもの。それが家の玄関から出てすぐの場所でみつかる。ここに住む友人がすなおにうらやましかった。

暑い陽ざしのなか

 だがそこはのどかなだけではなかった。顔をあげると田んぼのむこうには建設機械がずらりとならび大規模な工事をしている。すでにかなり進んで、小学生のわたしでもなにができつつあるのかつかめた。

それは新幹線建設工事。当時この友人の家から歩いてまもない距離に高架とその奥にはとても長いトンネルの工事がすすみつつあった。

そののちに

 ときは飛んで中学生のころ。ようやく岡山から博多までの延伸が完了。開通間もない頃、父と弟ともに小倉から博多に新幹線をつかってあそびに向かった。快速ならば博多まで1時間あまりの道のり。

当時はもちろん0系。丸顔の先頭車両。八幡南部から筑豊地域にかけての地盤がまだ安定していないということで期待したスピード(当時は最高時速210km/時)は出さずじまい。特急ぐらいのはやさに感じた。

おなじみの景色のなかを

 このあたりは筑豊炭田一帯のため地下には坑道がいたるところに伸びている。その影響をじゅうぶん考慮しての当時の措置だといわれた。それからほどなく最高スピードでこの70キロあまりの区間をとおりぬけるように。

今ならば最速で15分ほどにすぎない。はじめての乗車での徐行運転はすこし拍子抜けしたが、在来線の特急と変わらぬスピードが出ていながら、揺れなくて静かにすぅ~と走るようすと軽快な走行音ははじめての感触だった。もちろん、車窓から遊んだ友人の家だけでなく目になじんだ北九州の工業地帯のようすがちらりと見えた。

おわりに

 そののち、修学旅行や大学受験でたびたび乗る機会が増す。毎日顔を合わせるクラスメイトとものめずらしさの残る超特急に乗れるうれしさと。その両方の楽しさの相乗効果で退屈する間もなく京都に。その数年のちにはこんどは高校の修学旅行や大学受験に向かう。そして大学にすすむと学会発表の機会や就職活動でも利用。

こうして人生の節目でお世話になった。そのたびごとに車両の改良がすすみ、100系、300系…それぞれの列車を利用してきた。乗るたびにより快適に過ごせるように。先日は品川~浜松間を往復利用したが、PC利用の可能な座席でシートはずいぶんよくなり、揺れにくいのでPCのキーボードも支障なく使えて疲れずにすごせた。

乗るたびにさまざま利用してきた過去のできごとがあたまをめぐる。


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