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ふせん(付箋)をはさむ、ふせんに記す まなびのなかでよくやることの意味


はじめに

 ふと思った。これってどういう意義があるのだろう。ほぼ無意識のうちにまなぶ本のあるページにふせんをつけたり、しおりをはさんだり。のちにそこからやろうとしてそうするのか、それともいつかまたこのページをさがすための布石なのか。その意図がはっきりしないと何のためにしるしたのかわからなくなる。

きょうはそんな話。

まなびの場で

 ことしはとくにふせんが活躍。受験生のわりあいが多いためか。タイトルヘッドの写真は数日前の教室でのひとこま。1冊の図書館で借りた数学の参考書にこんなにふせんをつけた。2週間ほどの貸出期間のあいだでのできごと。この期間内である生徒は3回訪れ30分間×3回で高校数学を一気に復習。とりはずしたふせんの山ができて帰っていった。

受験生ならではの光景かも。これとていつもの教室でのふせんの使いかたとはちがう。短期間活用のかなり特殊なほう。目を転じてふだんづかいならば定期試験前などに「ここやっておいたほうが」と教室にそなえつけのテキストにわたしがつけ、生徒たちがそこをわりとのんびりとやる。

意味がわからなくなる

 一方、読書、とくに私本ではそうはいかない。つい途中で放りだした本にのこるふせん。いったいどんな意図でそこにふせんをつけたのか皆目見当がつかない。自分でつけたのに。たいていそんな本は最初からつけたところまで読みなおして、ようやくそこにつけた意味を理解できる。放っておいたあいだにたいして進歩がなかった証拠かもしれない。

上とはちがう使いかたも。何度やってもわからない、なかなか理解できない問題やのちに論文で引用したい個所などのそばにつける。ひとりのニンゲンの思考なんてそんなに変わりばえしないのか、ふせんがなかったとしてもやはりそこで視点がさまよい、思考が滞る。初見の交差点みたいな箇所といえそう。

ふせんをつける意味

 めじるしをつける行為自体、いろいろな場面で遭遇する。ちょうどいまごろ山にはいるとヤマイモの葉が黄色く色づいている。ここにヤマイモが埋まっているのかと緑の木々のなかでもすぐわかる。ところがいったん落葉してしまうと、とたんにその「ありか」はまったく判別不能になってしまう。

そこで黄葉したタイミングで自分だけわかるめじるしをそこへそれとなくつけておく。つぎに掘る道具をもって山に入ったときでもすぐにその「しるし」の意味さえおぼえていればありかを知れる。

おわりに

 ふせんをなにげなくはさんでしまうと何の目的でつけたのか意味不明になってしまい、しかたないやととりはずす。そして読みなおす(まなびなおす)とおなじところにふせんをつけてしまう。

なにをやっているんだろう。進歩がないなと自省する。

ふせんという文具ひとつとってもこんなありさま。小人の進歩は微々たるもの。着々とちからをつけられるヒトビトがうらやましい。ヒトサマはどんなふうに効率よく利用しているのだろう。その点の興味は尽きない。


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