ジャン=フランソワ・ミレーの描く働き手のうごきには日々のしごとありのままの力が見える
(2024.11.11加筆)
はじめに
農業を6年ほどやった。耕運機を使わず手作業のみ。その結果、動物害や風害がこたえて、さらに昨今の状況で販売の場に(物理的・精神的に)立ち寄れなくなりあえなく断念。さすがに牛馬耕をとり入れた鎌倉時代よりも以前の農法ではなかなか容易でないと知った。
それとはまったく無関係に絵に親しむ。ジャン=フランソワ・ミレー(以下ミレー)はなかでも農家の人々の質素でつつましい生活に寄り添い、そのようすを丹念に描いた。そこから感じとれること。
きょうはそんな話。
農家の人々
はたけでは鍬をつかい土をたがやし草をむしり、たいてい天を見上げるよりも下をむいてもくもくと作業するほうが多かった。それだけ無心になれる。暑いさなかにあまり集中しすぎると、いつのまにか水分補給を怠りその場で参ってしまいかねない。
用心してかたわらの一輪車上のペットボトルや水筒(複数!)に水を常備していた。真冬でもつねにからだは火照り汗をかく。地面が凍るほどの朝でもシャツ1枚の作業で、汗をおとすのにそのままシャワーだけですごせるほど。
やさいを地域の湧き水で洗浄、拭いて袋に詰め、値札をかねた個人識別シールと商標を貼り、運搬用トレイに詰めて、20kmはなれた販売所に運搬。つねにうごきつづける。
そんな生活をしていると下ばかり見つめていたはずが、種まきのあとはとたんに天を見上げる機会が多くなる。もちろん雨を期待して。日がな1日のあいだ気象情報を気にしていた。
ミレーの目で
画家のミレーは当時の農家の生活のようすをつぶさに観察。どうみてもその絵からは経済的なゆたかさは感じられない。作業はわたしよりもはるかに過酷だし、場合によっては落穂を拾うなど足しにせねばならないほど。
ところがその日の作業をようやく終え家路につく頃には夕陽にむかいきょう1日を感謝する。そんなつつましく敬虔で信仰心の厚いヒトビトの生活のようすを細やかに描いた。
手押し車を押す作業の場面。山のように重い荷を重心をとりつつ大地にしっかり足を踏み込みながら一歩一歩手慣れたようすであごをひき前傾姿勢で進んでいく。いずれの作業も腰が入り確実に地面をつかんでいる。そう、キャンバス上のヒトビトの農作業のすがたはいまもそれほど変わらない。
腰にさげたふくろから手につかんだ種子をまくようすは、いまならば固形の肥料をまく作業そのものだし、こしを曲げて地面のものをひろう・ふれるすがたもまさしくおなじ。
作業のひとつひとつを
むかしから変わらないしごとの本質をとらえている。たいていヒトビトの細かな表情はそんなに描かれていない。むしろうしろすがたや下を向いて地面あたりを見つめるひとつのかたまりとしてとらえている。ただもくもくと作業に取り組むからだの表現がそのヒトの顔であり、こころのありようを率直に表している。
農作業中に何を考えていただろう。たいてい作業にとりかかるまえにきょうやるべきことを順番に思い描いていた。さかのぼるとその週の農作業のだんどりを、さらにふりかえるとその月に必要な資材の準備など、もっとまえにはその年の春の作業に必要な前準備を、とつぎからつぎへとけっこうからだだけでなくあたまをつかう作業だった。
おわりに
ミレーの絵の世界をみつめていると、その場面上のヒトビトの思いを考えてしまう。ほんのすこしだが類似の作業を経験したことで、ごく一部とはいえそこで浮かんでくる感情やなにかを感じとれるかもしれない。ミレーやバルビゾン派の画家たちの絵からはそんな思いが共通して感じられる。