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がまんをする・しているという感じがなくても幸福感の得られる未来図とするには

(2024.8.26加筆)

ありがとうございます

はじめに

 あくまでも私感にすぎない。基本的に現在必要なことをのぞき、お金をかけないくらしに慣れつつある。家賃をのぞけば、大きな出費は年金の納付、税金や社会保険などにすぎず、あとは食料と光熱水。新規でやろうとしているスモールビジネスさえ、ほぼ初期投資をかけずにやろうとしているぐらい。

これはいわゆる「経済発展」にはそぐわない。あえてお金をかけてまでしたいものはない。世間に向けて世捨てビトになろうと訴えているのではない。「持続可能性」すらこのレベルでの維持ならばすでにあやしい。それよりもお金をかけないくらしでも最低限経済がまわるようにもっていけないか。

きょうはそんな話。

もうそんなにいらない

 ものやサービスにこだわりはない。このごろ店でも必要最低限のものさえ手に入れば店を出る。執着しないし、こんなにたくさんあるのにほしいとも思わない。ある意味それはぜいたくだから言える一種のわがままなのかも。

たとえ買いわすれても「あした買えばいい。」とできる。それは世の方々のおかげ。とぎれないように維持してくださっている。でもこれって。ほんとうに困窮して不足し、質素なものしか手に入らないとそんなきれいごとすら通用しないとは思う。

極端なのか

 そんな状況はごく身近につねにありそう。いつそうなると限らない。現況はやるせないお祭りがつづかのよう。そう見えるのはむかしから「ハレ」の行事にはあまりかかわりたくない変わり者だからかもしれない。

正月もふだんどおりがいいと特別なことはしないほど。ここで持続的な経済を…と語る資格はないほど極端な考えの持ち主だし、電子レンジや冷蔵庫なしではまともに生活できない。野山でテント生活しようと主張する気もないし、できない。世の安寧にためもっと中庸でいい。

平穏こそがみずからをコントロールするうえで最上と感じてきた。その思いはますます強くなり、近ごろはその「祭り」の状況すら関知しない、関わらないで済むならそうしたいと思えてきた。もはや維持したい中庸とおぼしきレベルの経済さえ「祭り」のように感じてしまう。

いわゆる「経済発展」は必須なのか

 資本主義や自由主義経済とはいったい…。このところそう思う。じつは学生時代に学びなじんできた経済学や社会科学の理想と現実はどれほど乖離しているのか気になる。

かといって社会主義も…。じつはそんなある像とは裏腹に、ときの経済や政治に影響力をもつごく一部のヒトビトにつごうのいい世のなかの状態を「◯◯主義」到達まで至らない状況のままそう呼んだにすぎないのでは。

ほんとうは縮小していくなかにも人類の生き方のあるべき理想像をもとめられないかと最近思う。なにも富ばかりを追うのが目標とは思えないし、すくないパイの奪い合いをしているだけに過ぎないと見えてしまいがち。生きにくい高潔なものである必要はない。「平凡な日常」のくらし。

それならば

 若い方たちはどう思うのだろう。「先が見えない」とよく話題にあがる。将来の展望を予想する場合、どんな未来があたまのなかに浮かぶのだろうか。

わたしのこどもの頃の予想はこども向け雑誌などにイラストで表現されていた。一部は実現しているがあいかわらず、その裏ではあらそいごとは絶えないし貧富の差は埋まらず、当時はあまりそれほど耳に入っていなかった気候変動などもある。

予測図をえがく

 このごろの未来の展望やなにかにおそらく「現状がながくつづいてほしい」というのがありそう。有限の地球の表面でしかも住みよい地の開発が尽くされ撹乱される現状で限界に来ているのはあきらか。その一方で社会インフラの老朽化もめだち、維持していくのすらすでにむずかしい状況は先の自然災害でもあきらか。

おわりに

 この先にわたしたちにはどんな未来が待っているのか。未来予測図をこどもたちに描いてもらうとすればどんな絵になりそうか。ふりかえっておとなたちはどんな未来を思い描くのか。もっと選択肢の尺度はとくに「いびつな発展」とはべつの方向への展開がいくつかあってよさそう。わかいヒトたちといっしょに考えたい。


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