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私がなぜ家庭菜園を始めたか🎃

以前、大学の後輩からなぜ家庭菜園をやっているのですかと聞かれた。
不思議なことが気になる奴だと思いながら質問を聞いていたが、後輩の言に少し気になる部分があったので書いておくことにした。

後輩が言うには、お金になるからか、飛び抜けて美味しいからか、ということだった。
つまり、家庭菜園の根底にはカネが欲しいからもしくは美味いものが食いたいからという欲があるに違いないと思ったそうな。

残念ながらそれは2つとも間違いだ。

ただ、美味しさについてはたしかにズバ抜けてうまい。さすが「味の固定種」と野口種苗研究所の野口さんが言うだけのことはある。
とくにうまいと感じるのはイモ類、豆類、果菜類、葉物、、結局ぜんぶ美味い。本当だ。春菊などは一発で差がわかる。あ!これ昔の春菊じゃないかと思う人もいるだろう。私もそう思った。気がつかないうちに香りが薄く生命力のない野菜ばかりに囲まれていることに愕然とした。

人参もまったく違う。春巻き五寸人参はセリ科特有の爽やかな香りが嬉しい人参だが、買ってきた人参にはこれまた香りも生命力も感じない。
本物の小松菜は丘ワカメの様に肉厚で美味しい。出回っている一般品の殆どはチンゲンサイとの掛け合わせだそうだ。
ほうれん草も目が覚めるほど甘味が強い。豆類は鮮度が命だ。家庭菜園に敵うものはまずないだろう。

全体を通して言えるのは塩茹でや塩揉みするだけで十分に美味しいと感じられる点だろう。料理をするとむしろ個々の個性がボヤけてしまう。
料理に舌鼓を打ってグルメぶるのは勝手だが、素材そのものの味を知らないそうした輩は意外に多いのではないか。

後輩もやや挑戦的に成城石井の野菜より美味いと言えるのかと問うてきたが、笑止千万。
とはいえ、いくら口頭で説明しても伝わるものではない。自分で育てて食べてみないと知れない世界というものがある。

無論のこと、自分で育てたという満足感や実感ゆえの美味しさもあるだろう。
そうした味覚だけではない、経験や実感を伴った美味しさだって、立派なひとつの味覚なのだ。

次にカネについてだが、カネにはならない。
そもそも出荷すらしていないし、8坪ぽっちでやろうともやりたいともできるとも思わないが、例えば専業農家で子供を大学にまで通わせたいと考えてみるならば、私は間違いなく固定種栽培を捨てるだろう。化学肥料だって補助的に使うことを厭わない。それが人間というものだろう。聖人ぶるつもりはない。
かの菅原文太も後年固定種栽培に挑戦したが、出荷用はやはりF1種に落ち着いたそうな。F1種については後で触れることにする。

さて以上、書けばキリがないほど家庭菜園はプライスレスなリターンに溢れているが、もちろんそれが最初から目的で家庭菜園を始めた訳ではないのだ。
経緯を端的にいえば、まず松岡正剛の千夜千冊で取り上げられていた野口さんの「タネが危ない」の回を読んで衝撃と怒りを覚え、種子法廃止の一連の流れに失望と怒りを抱き、videonewsで野口さんがゲスト回の番組終盤で「じゃぁどうしたら固定種を守れるんでしょうかね」という問いに対して野口さんが「家庭菜園の復活しかないのではないですか」と答えたのを観て、やらねば!と義憤にも似た気持ちを抱えたのがきっかけである。

なぜそんなにも種に執着するのか。
それは松岡正剛の千夜千冊を読んでもらえれば分かることだが、ひとつはF1という種子を作るための「雄性不稔」という恐ろしい技術を嫌悪するからだ。
また、種子法廃止のようにタネや我々の食糧そのものをグローバル企業に売り渡す国の行いにも吐き気を催すからである。数多ある売国奴国策のうちのひとつではあるが、その一つ一つに怒りを覚えずにはいられない性なのだ。

現代日本人は何かといえば、「情けない」の一言に尽きる。なにが大和心を人問はば、だ。朝日に匂う山桜花?馬鹿言ってんじゃないよ。民族としての主体性を持たないただの烏合の衆じゃないか。早晩滅びるよ。こんな民族の国家なぞ。
我々はただの「情けない人たち」であって日本人という呼称すら当てはまるかどうかも怪しい集団でしかない。

政治家も民衆も「今だけカネだけ自分だけ」。政治家は対中政策に対米従属一本槍で日米合同委員会と自民党内のパワーバランスが日本人の政治なのだ。民衆は国家も社会も政治も歴史も興味が無い。ただ感情のフックに釣られていいように扇動民として使われるだけ。こんなのは国家じゃないし健全な社会を営んでいるとはとても言えない。
米国に生かされ使われているだけの烏合の衆だ。

さて、話が愚痴っぽく逸れてしまった。
何しろこの腑抜けに腑抜けた、マッカーサーにせいぜい12歳と言われた頃から成長しない日本人とやらにほとほと嫌気が差しているのだ。
「他者を貶めることなく自らの文化に自信を持ち、領土と歴史に責任を持って毅然とした外交を営む」という当たり前の構えを理解できる大人がこの国には育っていない。永遠に意識と知識のバランスが悪く、知性に乏しく、感情の働きが稚拙なままなのだ。

いいかげん話を戻そう。
F1とは一代交雑種のことで、育ちが均一で畑のローテーションに適している。しかし種をとっても一代限りの雑種なので親の形質を受け継がない。育ちがバラバラで親に劣る。
種が取れないということは土地に適した進化を遂げないということだが、種は買うことにして採種の手間は省かれる。そのF1技術を可能にするのがまず除雄であり雄性不稔なのだ。
乱暴な例えになるが、カブとハクサイをくっつけたいと思ったら余計な生殖器はいらないと思うだろう。だから雄蕊を取ってしまうのだ。これが除雄。ていうかそもそも取るのも面倒だから雄蕊なくせばいいんじゃない?これでできたのが雄性不稔だ。生命の目的は種の保存と繁栄だから、この生理が狂った生命はミトコンドリア異常を引き起こしている。人間で言えば無精子症だ。

野口さんはこのミトコンドリア異常に強い警戒心を示していて、少子高齢化やミツバチ減少の原因ではないかと警鐘を鳴らしている。
私もミトコンドリア異常の作物を日常的に摂取しそれで身体を作っていることが問題ないとはとても思えない。

しかし、この国を守るべき人たちが水俣病や原発事故の際に繰り返してきた言葉を、この一億総健忘症の人たちはすでに忘れてしまったに違いない。
「事実関係が認められない」「直ちに人体に影響がない」こうした言葉で安心できるのは一体どういったメンタリティなのか。
エビデンスがー、とかやたらと口にする人は増えたが、そのエビデンスとやらの根拠となる理論を見たり考えたりしたことがあるのだろうか。甚だ疑問である。

別の話になるが、かつて福島の原発被害者たちに「結局は金目でしょ」の言葉を吐いた政治家がいた。
彼は田舎に住まう人々が彼らなりの合理性に基づいて行動しているとは思いもしないのだろう。

私の普段みているメディアでは、海や山間部での開発で反対運動との衝突がよく目につく。
まったく飽きずに何も踏襲せず同じような構図で同じようなことを繰り返しているなぁ、と最初は上から見下ろしていた。
しかし、畑をやってからその見方が変わった。

彼らはけして目先のカネだけで踊らされているわけではないのだ。
彼らの合理性は「より安定した収入」の一点にある。農業は大変だ。高齢化とは相性が良くない。とはいえ親族に継ぐ者はいない。土地が荒れていくのは目に見えている。ならば土地を売るなり貸すなりして現金収入に変えた方が良いだろう、と考えるのは理解できる。更には、もし開発が無用の長物化しても建てた会社に撤去してもらうし、それでもダメなら自分達で撤去してまた耕せばいい。そう、彼らには土地の再生ビジョンと具体的な方法の蓄積があるのだ。

問題は、農業がカネにならない。後継者がいない。この2点だ。どうせ後継者がいないならカネに替えるしいずれ時がくればまた耕すさ。そういうことなのだ。
彼らには彼らの合理性があるのだ。けして国や企業に一方的に騙されているわけではない。
F1作物にしたって野鼠も食わないF1野菜が便利ではあれど良いもの正しい行いとは思わないだろう。種はいずれ採ればいい。そのとき採れる種があるかどうかは別の話だが。

全てはカネと後継者不足に問題があって、国が何の施策も打たずにグローバル企業に日本人の食の未来を丸投げするところに原因があるのだ。
だからといって乱暴な土地開発を容認できるわけではないし、だからこそ反対運動や地域の分断があるわけだけど、それらを生んでいる根本原因と当事者の判断基準や気持ちというものを理解しようとしないと本質は見えてこない。

本質への眼差しを獲得するために我々は土に触れる必要があるのだ。

さてそろそろまとめに入ろう。
私は現代アートを行うアーティストだ。
現代アートとは逆説である。逆説的に現代を照射するのが現代アートだ。

私は家庭菜園をやる時もアーティストとして家庭菜園を行なっている。
ライフスタイルを公表することで社会に提案し示唆しているのだ。

我々はまず「食う」という言葉を勘違いしているのではないか。
食うためには働かなければならないが、働くとはそもそも食べ物を作るための労働を指すのであって、時間と労働力を換金することだけが人生の形であるとどこかで決めつけてはいないだろうか。そしてあまつさえその世界観を我が子なりに押し付けてはいないだろうか。
土や雑草について目を向け考えることすらせずに忌避していないだろうか。コンクリートやアスファルトで無惨にも埋めてしまったその場所で、一体どれだけ豊かな実りが生み出せるか考えたことはあるだろうか。
種は受け継ぐべきものだ。なぜならその土地で生きる、生き抜くための生命力をお裾分けしてもらうことで我々は生きてきたからだ。
農耕が悪くて狩猟採集が良いという偏った見方をする人があるが、そうじゃない。富や備蓄を独占したり人から奪おうとしたりする人間の精神や判断基準に問題があるのだ。

戦争の根本は独占欲や収奪などの攻撃性だ。科学技術の進歩に比していつまで経っても全人類が幸福にならないのは、皆がどこかで格差を容認しているからだ。自分を勝ち馬に乗っていると認識したい浅ましさがあるからだ。
そうした根本への眼差しを、土は常に静かに見守っている。我々はいつでもそこから地球の哲学を受け取ることができる。なのに誰もそうしない。

目の前の土を掘って生ゴミを埋めて種を植えるだけで素晴らしい恵みにありつける。そこから種をとって継いでいけば更に素晴らしい作物に出会えるのに、誰もそうしようとは思わない。

私は土と同じように静かに現代社会を批判している。
現代社会の間違っていると感じられる全ての部分に対応する形で地球は存在している。
私はギリギリで拝金主義に塗れた社会生活を営みながら、片方では地球に依存した生き方を提案している。

刺激的な何かが見えるわけでも狂ったような自傷行為に及ぶわけでもないこの行いが、私の「表現」であるとは誰も気が付かないだろう。
無論、それでもいい。

この表現は土から学んだ静かなレジスタンスなのだから。

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Jin HASHIMOTO
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