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思考の変遷 2023.9-2024.9

昨年は9月13日から台湾は高雄にある橋仔頭糖廠藝術村で2ヶ月間の滞在制作を行なった。
今年は10月15日から台北で個展があり、また同じような時期に台湾へ思いを馳せていることが興味深い。

台湾から始まり台湾へ。
ということで、ここ1年を区切りに思考の変遷を公開することとした。

ところで、滞在制作とは「アーティスト イン レジデンス」(AIR)と呼ばれるもので、大まかに

①滞在先で往復費用、制作費、生活費を賄ってもらう
②全額実費で賄うがスタジオと住居使用可能
③有料でスタジオ、住居使用可能

の3パターンがある。無論のこと①が最も人気があり、ゆえに競争率が高くなる。

台湾では台北のTaipei Artist Village やTreasure Hill Artist Village 、高雄のPIER2や橋仔頭糖廠藝術村が主だったAIRだ。

知らない人のためになんとなくAIRの説明から始めたが、前述の通り今回はAIRの話ではなく、ただ1年分の思考メモを公開するだけである。
普段から行なっている私的なメモであるからこれまで公開はしてこなかったが、今年は目まぐるしく自身の世界観が変化しているため、これはこれで面白いかなと考えた次第である。

そもそも、日本社会ではカネ持ちとか有名人とかの範疇であると勘違いされがちな“現代アート”において、私はけして中心で時代を牽引しているプレイヤーではないものの、真摯に制作と発表を継続している1人のアーティストとして、人間の“表現”というものの面白さを伝えられたらと思い、始めたnoteである。

そうした1人の人間が、この1年でどのように思考を展開させたかという変遷に着目してもらえれば幸いと思う。
中には普通にメモをとったものもあるが、それも(メモ)として記載してある。メモも「表現者としての私」を形作る重要な素材だ。

以下の思考メモの中にも記してあることだが、思考の変遷とはいえ「思考とは私が考え導き出したものではない」というのが私の認識である。
ルドルフ・シュタイナーの言うように、思考とはそもそもこの世界に存在しているものであり、我々はただそれを掴むだけなのだ。

つまりすっかり退化してしまった波動感受性を駆使して、微かな波動を頼りに現在の自身にとって必要な情報を獲得しているというのが、私にとっての「思考」である。
そうした意味において、私の私による思考のように見える下記の言葉の羅列も、構造的に見れば全宇宙の集合知から導き出された“天啓”であるとも捉えられるわけである。
そのため、私はこれまでずっと以下のように思考のメモを書き溜めては、時々コップの水が溢れるようにブログやnoteを書き記してきたのだった。

さて、いつも通り前置きがくどくなったが、以下に1年分の思考を羅列する。
今年はこれまでの10年分の思考が一気に収斂したような、そんな思考の変遷だった。

また来年へ向けて、新たな天啓がきっと私に舞い降りてくれることだろう。


・愛と知性

「知性」とは宇宙の探究。
人は概念、精神、物資の宇宙いずれも分からずに死ぬがそれでいい。

「愛」とは分かち合うこと。

以上は個人の命題であり、「知性」は達成不可能なもので「愛」は肉体の死まで継続すること。

無論、愚かなる我々人類の命題はいつの時代も「愛と平和と環境保全」であることに変わりはない。

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・アートの強みは機動性。社会のあいだが棲家になる。
繋げたり異なる視点を示したり。明示ではなく暗示を好む。
一神教より多神教。構造性より非構造性。
粘菌のように環境でカタチを変えて、時には胞子がフワフワと。
社会を揺蕩い緩やかに拡散す。

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・アートの在り方は時代ごとに異なる。
本質の定義付けができないことが本質であるように、アートは固定された定義付けができないというのが本質だ。
故に、自身の社会的確立のためにアーティストや識者が好んで使う「アートは〇〇である」という語法はどのみちすぐに詰んでしまう。アシが早いのだ。

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・ライオンが肉を食べても、自身の食事と同じ地平にある行為であると見える。でも、マイマイカブリの捕食にはドキッとさせられる。なにかがとてもリアルでグロテスクに感じられながら、本質的な凄みを感じる。
時に、小さきモノや生き物の方が“リアル”に感じられたりする。

「見立て」の根源は、この置き換えによるリアルさの連想なのだろう。

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・台湾における「日本統治時代」を見つめて表現を行ってきて、良い話もあれば悪い話もある。
良い話に触れれば嬉しくなるし、悪い話は悲しくなる。これは人だから当たり前だ。

見る視点で真実も正解も変化する、絶対的視座など存在しない世界で炙り出されてくる大事なものはただ一つ。

「信念」

その「信念」を醸成するために、歴史と向き合う必要がある。
「記録」がある歴史はある視点からの真実(その記録の信憑性が担保される限りにおいて)である。

その全てを受け入れた上で、個々の「記憶」に寄り添っていくのが、私の考えるアーティストの在り方だ。

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・人が死んだあとには本が残る。もしくは本人にしか価値がないガラクタだけが残る。

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・愛と祈りは近似性がある。それは「感謝」と「慈しみ」が中心にあり「捧げる」という能動性が全体を貫いていることにおいて。

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・アーティストの社会性は「感謝」と「慈しみ」を作品に込め、他者の理解と賛同を得ることで自身の全身全霊を地球と人類社会の未来に「捧げる」ことだ。

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・畑をやっていると、この世界が既に完璧であったことを知る。
縄文人が平和だったのは、世界と他者を疑わなかったからだと思う。
そうした意味で、現在の若い世代は縄文的スピリチュアリティーが備わっているとも言えるかもしれない、と思う。
でなければ、スマホを見ながら歩けないだろう。それは南米などでは死に近づく行為だ。

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・湾生を懐かしんでいるのではない。私の仕事は懐かしむことではない。
台湾の日本統治時代と敗戦と戒厳令下を日本人として見つめることは、それぞれの時代を通して、台湾人、台湾原住民、中国人、朝鮮人、日本人、そして現在では新住民と呼ばれる東南アジア系も入れて、東アジア全体の歴史を考察し相互理解を深め、民族の和解を進めるために行われるべきものである。

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・アブストラクトをそのまま出すな。色彩の気持ち良さに溺れるな。それがきちんと「なにか」に成っているか、俺の魂は、波動は込められているか。
常に己と作品に厳しい目を向け妥協をするな。

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・内なる神が喜ぶことをせよ。

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・世の中には色々な人間がいる。なぜか。「協働せよ」ということだ。そのために、誰しも「共感」という能力が備わっている。

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・日本の良さとは何か。列島各地に煌めく気候風土と文化の特色だ。
こんなにも一つの島で楽しく美しい多様な体験ができる島は地球上に日本しかないと思う。
ところが安倍政権以降の日本はどうだ。空虚な日本礼賛、戦前の全肯定、自衛隊賛美、憲法改悪、軍需産業参入、日本人特別説…等、極めてアンバランスで洗脳的かつ表面的な押し付けがましい自己肯定感。
こんなものが国民の誇りになり、国のために喜んで命を投げ出す奴隷兵士を作り出すための糧になると、本気で考えているらしい現政府。
笑えないほど絶望的だ。

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・西洋的なディベートというやつは結局のところ強いオピニオンリーダーを育成し輩出するという一神教的な着地点に終始する。

森の多神教はそもそも多神多仏で群雄割拠のバランスで保たれた平穏状態こそが平時の状態であり、多分に動的なものを内部に孕んでいるというのが本質である。
バランスの崩れは争いを意味するが、常にバランスを取る方向にそれぞれが着地点を模索するところに特徴がある。
他を完全に殲滅し制圧するのではなく、大体において憂慮がなくなるほどに痛めつけ、共存の着地点を見出すのがこの島の歴史ではないだろうか。

他方、一神教的な平時もまた動的なものを内部に孕むが、それはリーダーが衰えたり亡くなったりしなければ絶対に近いものであるし、権力の空白が生まれれば席の奪い合いは苛烈を極める。
なぜなら一神教的世界観ではリーダーは絶対でなければならず、それにはその時代の価値観に合致した”強さ”こそがまず求められるからだ。

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・陰陽と循環。表裏と渦。【マワリテメクル陰陽の照応世界】。
DNAの二重螺旋構造と相補性にそれが顕れている。物質的(3次元)に顕れてくるカタチは非物質世界(多次元)の鏡像。
作品は全てあちら側からのメッセージ。私は表現者ではなく翻訳者だった。

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・要するに、「循環」「鏡像」「相補性」これが宇宙の全てである。
今後は何をするにもこの視点でのみ考えればよい。

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・3次元世界(認知・意識・五感) / 多次元世界(イメージ・ヴィジョン・ひらめき・無意識・夢)

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・成仏とは仏になること。仏になるとは世界になるということ。
世界と私は表裏一体、不可分であるということ。それを感得すること。

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・思いや願いは強いエネルギー。故に陽性の思考や感情を大事にしていくことで自身の周囲は陽性のエネルギーで満たされていき、それが集合すると個を包括する「世界」そのものになる。陽性のエネルギーは自然の中に満ちているので、畑や自然の中に行くと良い。
山岳修行はそのエネルギーをこそ崇拝し、獲得したいという願いそのものではなかったか。

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・真言はつまり祝詞。言葉は認知と意識の表象だから、唱えるだけで認知と意識が形成される。しかしそれは唱える内容に具体的なイメージが付いていなければ意味のないもので、そのために膨大な知識を必要とするのが仏教のシステム。古文の日本語の響きなら今でもイメージが持ちやすく意味が把握しやすい。
全ては陽性のエネルギーで世界を満たすため、我々が宇宙と共存していくための方法。

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・我々を包括する世界は多次元世界と関係し合っているわけで、思いや願い、無意識は多次元世界に属するもの。
多次元世界を陽性にしなければ我々を現実に包括すると認識されているこの3次元世界では戦争、犯罪、天災、疫病という災禍として我々のこの身に降りかかってくるわけだ。
まさにそれは仏教で言われてきたことだし、それを避けるために権力者はとにかく寺院を建てまくってきたのだった。

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・神仏習合も本地垂迹説も良し悪しではないが、仏教のシステム的理解が難しいなら神道的イメージの共有に戻ってもいい。それなら正しい名前や響きを取り戻さねばならない。たとえば瀬織津姫のように。

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・家や土地には強い引力の波動がある。無論、全ての物事がそうなのだけど、やはり家や土地は、「生活」を通して地球や我々と密接に関わっている存在だから、個々の波動と引き合うものがあれば、それらは自然と強く結びつくものなのだろう。
生命ある存在、犬猫やパートナーとの出会いはまさにそれが具現化したようなものだ。

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・宇宙を知りたくば海を見よ土を見よ。地球を知りたくば身体を見よ己を見よ。

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・極陰は陽すなわち光への気付きのために残される。光への移行に伴い速やかに消えゆくは極陰の助けになる半端な陰からである。

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・心底からの「信頼」と「安心」。この2つを叶え持続させることが、「生活」というものの最大の目的だ。
故に婚姻制度がなくとも家族を心から愛し慈しみ守らねばならない。
「仕事」とはそのためにあるものであり、家族への愛を犠牲にしてまでしなければならない仕事などというものは、本来存在しないものなのだ。

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・予感や暗示の世界に生きる民族。それはかつての日本人。そして数多の女性。私の作品はその感性を育てるための装置。

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・話合いで解決できない事柄は、「争わない」が正解である。不可解かもしれないが、「不戦敗」を選択し平穏が得られるならば、敗走し逃げる方が正解なのだ。賢者は争いを選ばない。争いは宇宙が喜ばない。

ところでキリスト教の言葉に「右の頬をぶたれたら云々…」というのがあるが、激昂する相手に恭順を示し落ち着かせる戦略的側面もあろうが、その真意は徹底した「不戦敗」にあるのだと私は思う。
ガンジーはそれをよく分かっていたし、それを知的にも用いた人だ。

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・「戦い」に固執するな。たとえ己であっても戦いなどはない。敵は己が作り出すとは真理なり。あるのは「平穏」。平穏からのみ逆算し現在の割出しが可能になる。それ以外のたとえば「不安」や「恐れ」からの現在地の割出しは、無駄な間違いの連鎖を生み出すだけである。

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・「頑張る」と「無理する、我慢する」はイコールにならない。無理して我慢して行わなければならないようなことはやめてしまいなさい。素直に集中して行えることだけをやればいい。全ては勝手に繋がっているから。入口が違っても、結局は行き着く先は全て一緒になる。

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・運命の相手はカタチを変えても必ず会える。小さなキッカケが世界をメタモルフォーゼさせる。それはきっと子供のイタズラのようなもの。
そう。出しゃばりなんかじゃない。君はそうしていつも僕を助けてくれる。
手を伸ばそうとして、目が覚める。

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・ARTには物事を曖昧にする力があると考えている。その曖昧さは歴史研究などをしている人から見れば、受け入れ難いものがあるかもしれないが、歴史認識における人類の衝突を思えば、「曖昧さ」や「問題点の一時的な棚上げ」の重要性もまた理解されることだろう。

この「曖昧さ」に対しての許容やポジティブな感覚は日本人的感覚であるといえるかもしれない。かつて大江健三郎が「曖昧な日本人としての私」と言ったが、やはり最近の私もまたそこに帰結しようとしているように思えてならない。それは、目に見えない日本人の系譜による紐帯なのかもしれない。

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・日本人は海外への強烈な憧れや卑屈さを持つが、根本的なリスペクトを持たない。
相手が同じ人間でありながら異なる文化的背景を持ち、その異なる人間が自分達への共感を示したり興味を持ったことに対する根本的なリスペクトが足りない。
無論、それら好意的な振る舞いを喜び受け入れはするが、逆に自分たちから相手への興味と理解を示すことはしないし、考えることすらしないのだ。
それを一般的な人類社会の慣習と照らし合わせるなら、明確に「失礼」であると言えるだろう。

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・何かの入場待ちの列。居並ぶ人々は敷物を敷いて地べたに座り、もう長い時間そこで待っているようだ。インド人のような風貌。私は列の中程に荷物を置いて最前列へ行き、特別チケットのようなものを係員に見せつける。QRコード?弟と2人分だ。居丈高な係員が私の特別チケットを見て態度を変える。私は逆に居丈高になり得意げだ。手荷物のある場に帰ってみると、ウンコがしてある。私は逆上して周囲を見渡す。遠くに女子高生二人連れが柴犬を散歩させていた。このウンコはあの芝犬のものに違いないと確信している。女子高生は気にもしていない。楽しくお喋りしている。私は怒るに怒れない。うっすらと目が覚めて考える。「人を馬鹿にするな、調子に乗るな」のメッセージを受け取ったと理解する。要するに「オマエの態度はクソだな」と言われたのだ。返す言葉がない。
私は“特別チケット”を持っているかもしれないが、少々慢心に過ぎるようである。

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・存在の本質は魂。身体は入れ物。しかしただの入れ物ではない。奇跡の創造物だ。賜り物である。
この賜り物の原資は地球だ。つまり死して地球へ還るというのは自明のことだ。山川草木悉皆成仏とは万物が神の創造物であるということと同義だ。
この創造物は優れたエコシステムにより永遠の代謝と循環を行いながら動的平衡を創り出している。
簡単に言えば、我々の身体と植物を同じものと捉えてみればいい。

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・三次元地球での”人生”とは「魂の更生プログラム」である。浄化と言い換えてもいい。だから現実は一切皆苦なのであり、その苦の克服即ち己の邪や陰を見つめ地球の美しさ、感謝、慈しみ、愛、完璧な代謝と循環、それを司る身体、共生する数多の菌や微生物を通して「世界の本質を感得する」ことで己の邪と真の共生を果たし陰を陽と不可分なものとして大いなる愛で受容し魂の浄化を図るのだ。

そうして初めて、他者へも浄化の手引きを行うことができる者となる。その者が僧侶の原型である。故に斜に構えて「坊主丸儲け」などとは軽く言えないのだ。坊主丸儲けにしてしまっている末法社会こそがその写し鏡として大きな問題なのである。

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・「愛は次元を越える」これは映画インターステラーに出てくる台詞だ。アインシュタインもまた愛を強調した。「無償の愛」といえば現代人の嘲笑の的だが、私は笑えない。
愛は一つのエネルギーだ。しかも相当に強いエネルギーだ。無償の愛とはその最上級のエネルギーである。
この強いエネルギーは無論、重力と同様に次元を越える。この強い波動は波紋となって宇宙の彼方まで到達するのだ。
だからどうしたと言えばそれまでだが、存在の本質が魂であり波動なのだから、この哀しき三次元地球で強く美しい波動を発することは、それこそが魂の浄化に資する行いではなかろうか。

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・「名前」というのは一つの“呪い”だ。
戦国の世では武功を立てると「名」を貰った。その「名」があればこそ、「私」という意識が芽生え、「私」としての矜持も育まれ、人はその「名」に恥じぬよう生きねばならないと思い込む。

現代の親から貰う名前も同じことで、親のさまざまな思念が込められたものとして名前は熟慮の結果、子に授けられ、子はまた成長に従いその名に恥じぬよう生きようとも思うだろうし、たいして考えてもいないと知れば親の愛を疑ったりもするだろう。また現代ではその名こそがインターネット世界で拡散され注目を浴びたいとも願うようである。

しかし、元来は天皇でも源氏でも平家でもなければ、〇〇村の一郎だの三郎だのといった具合で、せいぜいが生まれ育った地域の一部であって、「私」というアイデンティティの確立とブランディングなどという考え方は存在しなかった。
すなわち「全体の中の一部」というのが自己認識の基底にあり、その「全体」に当たるのが、コミュニティであり、地域であり、果ては地球全体、宇宙の一部であるという、世界観、宇宙観の構築や受容に繋がるものだ。

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・無限の断片。無限は可能性ではなく本質だったのだ。

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・「私」という有限の三次元人生を経験している「魂(生命エネルギー)」はある『「全」なる存在』に集約される。その『「全」なる存在』自体が次元上昇寸前のため、我々の「今」という繰り返し(=輪廻)は一旦これで一つのサイクルを終えることになる。『「全」なる存在』の次元上昇には「全」に対しての「部分」たる我々自身の次元上昇へのエネルギーの高まりが満潮のように満ち満ちていなければならない。いわば、我々のエネルギーはそのまま集約される「全」の次元上昇時に使用される電池のような役割を担っているのだろう。

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・信仰は宗教を超える(2024年7月14日うずめ会メモ/光田会長による小田慈舟和尚の話によせて)

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・存在の本質は魂。魂が私を生きている。私の生は経験であり魂の浄化。
魂の経験は大本のデータベースに収斂される。大本のデータベース宇宙において個々の魂は全体の一部であると同時に固有性も認識している両儀的な存在である。

では、この「魂=大本」の状態における生とはなにか。それは幸福の追求である。
つまり、三次元世界、一切皆苦の中での目的は魂の錬磨であり幸福とはなにか、”真”の幸福とはなにか、に気付き少しでもその霊的理想に近付くよう実践することである。

この場合、間違えてはならないのは、幸福と幸福感との違いであり、幸福感はただのドーパミンやセロトニンなど脳内物質の化学反応であり、幸福とはあくまで魂が喜びに振るえることである。

その幸福が収斂された大元宇宙の幸福とはつまり、究極中の究極、考えられない範囲での最大の幸福である。

なぜかは知らないが周期的なものなのか、幸福のゲージがある限界点に達したからなのか、その大本宇宙はどうやらアセンション、存在の根幹からの次元上昇を果たそうとしているようなのだ。

太陽が日の出の際に地表の空気を吸い込むように、大本宇宙もまた次元上昇に伴い魂を回収し始め、その引力は日を追うごとにどんどん強くなってきている。
目に見えない情報をどんどん三次元世界に下ろして、魂に早いこと気付いてもらって出来うる限りの幸福データ蓄積をしてもらって回収し、できるだけ皆で次元上昇を果たすおつもりなのだ。

それでも気が付けない未熟な魂と経験は限界までくるとプツンプツンと繋がりを断たれてしまう。
それはそれで新しい大本宇宙に幸福経験を蓄積するためにまた長い長い輪廻を繰り返すこととなるのだが、それまで大本を同じくして同時並行的に経験をしてきた魂たちは、もはや永遠に交わることのない多次元へと上昇移行するのだ。

しかしてその超メガトン級に最大の幸福を追求するとてつもない大巨大な大本宇宙もまたより大きな宇宙の一部なのだろう。超絶大大宇宙は幾次元にも重なり互いに影響し合う超超超巨大メガトン級で果てしない、枠も限りもない本当に無限のハイパーラッキョウのようなものである。

世界はそう、ハイパーラッキョウ、無限ニンニク、本当の永遠。それが本質なのだ。

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・近い未来の価値とは心の振動数。つまり感動の波動換算値になるだろう。

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・進化と幸福が存在の目的。進化とは「より良い存在になりたい」という希望である。
幸福とは自身を含めた全ての存在が幸福になること、人間で言えば他者を幸福にし世界を幸福にすること。
これは光のエネルギーでもある。人間にとって神やUFOや宇宙人などの体験が光そのものであったり光を伴うのは、真なる幸福のエネルギーが光であるからだ。

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・(メモ/並木良和) 僕たちは『一霊(いちれい)』といって天に繋がる『直霊(なおひ)』=『ハイヤーセルフ』と、『四魂(しこん)』といって、『荒魂(あらみたま)』『奇魂(くしみたま)』『幸魂(さきみたま)』『和魂(にぎみたま)』という四つの魂から成り立っています。
あなたが『最高の人生を生きる』とき、この『一霊四魂』がバランスされ、統合されている状態が求められますが、それぞれの魂が浄化されておらず、それがままならない状態になっているのが実情です。
四魂のバランスは人によって違いがあり、それが個性になっています。
アンバランスであれば、悪習慣やネガティブな言動に繋がり、バランスされていれば、自身の持つ可能性を十二分に発揮できるようになるんですね!

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・一に「覚悟」。そして平和と共存への強く固い「意志」。意志は祈りの力。
愛と慈しみを知り、強く清浄な光の意志を持つこと。そしてそれを強く願うこと。それが、今我々が真から行うべき未来への構えだ。
必ず、何かしらは起こる。火山灰と放射能で悪意は島外へ逃げ出すだろう。その時、我々は恐れず我々を全うしきらねばならない。大いなる存在を信じ、身を委ねれば、必ず、次なる未来のステージへと我々は運ばれていくだろう。

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・蓄積とは永遠の一部を可視化すること。常に部分は全体を語るから。
つまり、永遠の一部から永遠を語ることが可能であるということだ。土から、身体から、地球から、宇宙を語ることができるのと同じように。

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・全ては大きく細やかに、緩く緊密に繋がっている。つまり、全てに両極点のグラデーションがあり、それらは縦横軸に限らず三次元であり高次元にもなり、突き詰めれば無限の円であり広がりである。

全てを単純化しようとするのは、そうして整理した方が生きやすいという人間の左脳的エゴに過ぎない。宇宙はとても人間の手には負えないものであるからこそ、人は神を必要とするのだ。そして、古来から宇宙人、大本の集合意識などとチャネリングしてきた人々がいて、そうした人々を通じて我々は畏れを抱いて生きてきたのだ。

そしてついに、我々が皆、神の一部であり神のための魂の浄化が3次元地球の人生であると悟った「仏陀」と「老師」が魂の身体からの完全なる着脱を可能としたのだった。

人は未だ、死における自身の選択の有無までは可能にしろ、生きながらにして魂の着脱をできはしない。仏陀と老師はそうした意味でも偉大である。

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・現在、我々が目にする情報はアルゴリズムにより選択された”自分自身からの推薦情報”が殆どである。インターネット上の情報引力は非常に強く、自らの人間性がそのまま鏡像性をもって画面上に顕れている。
つまり、インターネットが普及したその時から、我々は個々が持つ価値観を飛躍的に偏らせていく世界に接しており、自身のアンバランスさはそのまま情報のアンバランスさになり、正誤ないまぜになった情報の取捨選択がそのまま情報に触れる人間形成を急速に形作っていく。
そもそも人間の脳にはそんな速度感は搭載されておらず、これは一種のアセンションにおける情報処理能力の訓練であると位置付けられるかもしれない。

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・意識が開かれた人間はより解放、統合へと向けて加速し、閉ざされた人間はよりドン詰まりへ向かって加速する。
閉ざされた人間は肉体を取り上げられるのか、それとも一切皆苦を継続するのか。この分岐は果たして記録されるのか否か。物語として紡がれていくのか否か。もし記録し紡がれていくのなら、おそらく残った人々は悔恨の念を抱えて今生を終えていくのだろう。しかし、その悔恨は果たして26000年後もそのまま語り継がれているだろうか。
結局のところ、いつしかまた傲慢さが蔓延り過去に得た悔恨を努めて忘れ始めるのではあるまいか。そうしてまた、アセンションを遂げた我々が彼らに語りかけ始めるのだろう。歴史は繰り返す。いや、これは大いなる代謝であり循環なのだろう。

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・我々の脳は何のために発達したか。それは「皆と仲良く地球で暮らすため」である。それ以上でも以下でもない。答えは一つ。大変シンプル。しかし、人類史を見ればいかにそれが人間の我欲(エゴ)にとって難しいものであったかがよく分かる。

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・私は幸福を体験しにこの三次元地球にやってきた。とくに「美味しい」や「美しい」を最後に体験したかった。「愛しい」もいいが、愛しい相手はどうせいつも一緒なのだ。ではまたあちらで。といった具合。しかし、この感覚器官を通した五感の官能は今一度最後に体験しうる価値があると私は思う。
簡単に言えば、周りが「あれは美味しかったね、美しかったね、良かったね」と言い合っているのがどうにも羨ましくなって、最後か!と思ったら一切皆苦でも戻ってみたくなったのだ。
全てがくだらなく低次元に見えるこの世だけれど、地球と身体はやはりこれはこれで間違いなく素晴らしい価値がある、素晴らしい世界である。

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・農耕こそが占有、格差、争いの根源であるという「農耕批判」は不適切である。なぜなら縄文時代で既に農耕を行なっていたからだ。
農耕を行い、皆で分かち合うから、我々は幸福に生を全うできたのだ。
問題は農耕などの表面的な諸技術ではない。いつの世も問題は我々の「人間性」なのだ。

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・「やりたいことが分からない」といういまやモラトリアムを超えた現代人の普遍的な悩みは、家庭菜園である程度解消できるに違いない。なぜなら、現代とは「地球で生きること」の延長であるからだ。土に触れ、山へ入れば、己の振動数が掴めるだろう。
その際大事なことは、デバイスを切って身体を使い自身の内面と向き合うことだ。
座ったまま移動し到着したら飲んで食って自然を消費してただ日常に帰るという“オートキャンプ”は愚の骨頂である。

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・「平和」とは一つの現象的な社会形態であったが、次元上昇後は個と全体が同時に認知されるため“嘘が付けない”世の中になる。また、物事の波動を感じられるようにもなり、負の波長はあまり好まれないはずだ。
そのため、騙し合いや敵意や差別意識、選民意識などにより増幅する大きな争いの波長は極めて生まれずらい世になると思われる。

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・「やりたいことが分からない」「何をやったらいいのか分からない」などの漠然とした悩みに取り憑かれている人は、まず畑をやって本を読むことを心がけたらいい。
畑の代わりに鉢植えでもいいし、本は松岡正剛の千夜千冊や池澤夏樹の文学全集からでもいい。

畑はなるべく自然栽培にし、鉢植えを行う際は土作りをコンポストで行うところから始めるといい。
土に触れるということは「地球で生きる」ことの初歩であり、「全ては完璧である。不要なものは何もない。むしろ人の行いこそが不要だった」ことを学び始める。
菌根菌や糸状菌含め様々な微生物がいかに地球生物の根幹を成しているかに気づき、己の腸内細菌叢と土中環境、地球と己の身体を同等、不可分であることを知るに至る。
ここで初めて「己=世界」の図式を感得する。この時点で既に煩悩は無くなっているはずだ。

しかし、さらに世界認知を補強するために読書も並行して行うのがいい。読書とは人類の歴史的叡智に触れることだ。中にはアカシックレコードにアクセスしていたり宇宙の助言に従った痕跡もある。

時代と人間を学び、感覚を磨き、全ては「地球で生きること」に集約される。

そうした中で、自ずと「何がしたいか」「何をすべきか」の答えは必ず見出されてくる。
ポイントは行うか行わないか、継続できるかできないか、にかかっている。

やらない人間はやらない言い訳ばかりして自らそのループから離れる行動を起こさないかぎり永遠に同じところを回り続けるし、継続性は無理なく続けられる規模を最初から選び取るか、もしくはやりながら調整していくことが重要だ。

家庭菜園も自身を囲む情報も様々だが、羅針盤となるのは己の「信念と覚悟」に他ならない。
それを学び取るのが人類の叡智の軌跡を読む「読書」である。読書はなるべくなら紙の本を自身の手にとって読むのがいい。
なぜなら、それが最も普遍的かつ本質的な読書の方法であるからだ。

全ては古来から行なってきたように、「地球で生きること」を学ぶためにあるのだということを忘れてはならない。

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・要するに「根本へ立ち返る」ことなのだ。
贅沢すぎて不感症に陥った現代人は、自らの生活ひいては人類の文明がどういったライフスタイルから派生していったかを少し考えてみればいい。
そして自らの不感傷を解決したいと望むなら、その根本へと立ち返ってみたらいいのだ。

なぜなら不感症の根本はただの贅沢病だからだ。
贅沢は「自らのことを他者に負わせる」社会構造から発している。それを耳障りよくしたものが「制度による負担免除」だろう。
まぁ、どちらでもいいのだが、大事なことは「自らのことを自らで行うところから、自らを振り返る」というプロセスなのである。

余談だが、ちょうど山岡荘八が描くところの豊臣秀頼が、まさにその贅沢を病源とした不感症に陥っている。山岡荘八の深い人間洞察から描かれた武人たちの人間模様は、そのまま現代を生きる我々にも当て嵌めて見ることができる。

読書をせよ。「書を捨てよ街へ出よう」とは、街が魅力的であった時代、つまりもっと人や社会が生き生きとしていた時代の話である。

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・端的に言えば、現在の街には若さがないのだ。街は急速に衰えた。それは国家など、人間が作り出した機構の持つ宿命のようなものかもしれない。

その老衰の原因は「慣れ」である。平和にも享楽にも慣れてしまった人間達は、結局のところ平和と享楽を基盤とした経済基盤を維持させるためだけに、かつて本当にあった半狂乱の若さを、さながら今も継続中であるかのようにひっそりと焼き増しするのを繰り返しているだけなのだ。

今の街の一体どこに「若さとは愛と革命だ」と言える身を焦がすような情熱が転がっているというのだろう。
もはや熱に浮かされた愛も革命も都市部のどこにも見当たらない。

我々は心静かに愛を見つめ直し、本当の革命を起こすべき時に差し掛かっているのは間違いないが、その旗印は未だどこからも目立つ形では立ち上がっていないようだ。

拳を振り上げ、喉を枯らして、今こそ革命の狼煙をあげるのだ、、!!!

夏空に 虚しく溶ける 鬨の声

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・ルドルフ・シュタイナーは思考を「すでに世界に在るもの」と説く。では我々が思考だと思っているものはなにか。それは脳という機関を使って「既に在る情報を受信した」というプロセスである。即ち本来の思考とは全て天啓である。

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・素粒子論における超ひも理論では、すべては振動する紐であるという。そして次元とは振動する膜である。
それを知った時から私は次元という世界観の虜になった。我々の魂は意識体であって、その意識体の次元では個と全体が不可分の状態であるのだろう。だから双子の実験などでよく見られるテレパシーなどはそうした次元を通じて共振を起こしているのだろうし、おそらく全人類が一つの方向に祈りを集中させたとしたら、それは莫大なエネルギーとなって、その意識の次元を一気に支配してしまうに違いない。
それが一瞬のことだとしても、もしかしたらその次元においてはそれがその世界の新たな基準として機能するかもしれない。

整理すると、身体は魂の入れ物であり、魂の源はその意識の次元に違いない。つまり、「意識の次元=魂の次元」だから、もし意識の次元を支配しえたとしたら、無論のことそれより下位にある我々の三次元世界は否応なくその意識の次元の新しい秩序に付き従うことになるだろう。

それが、集合的無意識の形成つまり、「祈りの力」だ。

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・世界は自分自身が作っている。だからこそ、大事なのは強い意思と信念であり、皆でなるべく善なる方向性に意識を共振させることなのだ。
この世界認識が我々に突きつけるのは、個々が「神の在・不在を自分自身で決めねばならない」時に到達したということだ。

もし神としかいえないような「大いなる意思が存在する」と選択するならば、我々が我々だと思い込んでいる一切は存在しないに等しいということを認めなければならない。

世界に在るのは個々の振動、周波数の違いだけであり、我々が“私”と思い込んでいる周波数は大本の大きな周波数に取り込まれ共振している一つの“状態”に過ぎないということだ。

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・「全てが周波数」これは既に一部では常識化していて、今後その観念が本当に一般常識となるだろう。
ピタゴラス含め、世界を音として捉える方向はかつてから存在していた。いわゆる音楽家そしてミュージシャンと呼ばれる人々はかなり早い段階で音が宇宙とシンクロする感覚を抱いたことだろう。

藝術分野で語られる「共感」とは、世界が周波数であるため我々自体の共振・共鳴がその正体である。
空気の振動、鼓膜の振動、細胞の振動を通して我々は音楽や音色に「感動」するわけなのだが、無論のこと世界が周波数であるかぎり、もちろんモノにも周波数は存在し、共振、共鳴の「感動」も存在する。

しかし、音源から鼓膜が振動することで我々が音を認知する仕組みは教科書的にインストールされている反面、視覚や触覚からの波動の受け取りはなかなか語られることがないのが残念な実情である。

この、受け入れられずらい、実際に“振動しているように感じられない”モノの波動的認知をいかに生み出すか。

ここが次なる時代の美“術”であり藝“術”であり、ARTなのだ。
ARTでさえ、語源はARTISAN、職人である。手からモノの加工を介して波動を生み出す集団、それが本物の職人であり、その中でも地球外の産物とも繋がる高密度な記憶媒体である「石」を加工するのは石屋、つまりは本質を守り伝える人類史の番人、フリーメーソンである。

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・波動が高い物質は石や金属。宇宙にもあるか否かが鍵である。同時に三次元世界では加工がしずらいのも特徴。
故に古来から二者は神職でもある。刀鍛冶は言わずもがなだが、石工はフリーメーソンの源流だ。おそらく石工は音波で石を変成させていた集団である。
金属は物質的に鍛えたり溶かしたりくっつけたりできる。目で見て理解できる分、理解もされやすかったろう。

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・音と電気。音は波動。電気は波長。共に振動、周波数。
物質ではそれを素材に変換してみるといい。たとえば、色は音的である。木材、金属、鉱物でそれぞれ波長は異なるだろう。そこと向き合うのが、藝“術”家だ。

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・人という知性体の情報媒体としての水、それが血液だ。野生動物は嗅覚や味覚からあらゆる4次元的個体情報を読み取るが、同様に人類の未来も一滴の血液から個体情報のあらゆることが分かるようになる。
もしくは各国の軍などごく一部では既にそうなっているだろう。この技術の独占こそが既にして人間の限界なのだが、ここでは言及しない。

かつてその情報を取り出す何かしらの儀式は存在しただろう。その時に必要なのはけして致死量の血液ではなかったはずだ。なぜなら情報解析にそこまでの分量は必要なく、しかもそれが波動などの情報状態であれば尚更のことである。

何にせよ三次元世界で大きさや分量が莫大になるのはアナログな証拠である。そのぶん地球への負荷もかかるのだから、コストを人類社会のカネでしか換算できない地球人は消滅してもらうしかないのかもしれない。
更に言えば、既にして技術力ではそのコストをかなり下げられるのに、その技術を人類全体で共有することにより最適化を実現する方向へは舵を切れない。自らが格差を基盤にした社会を捨てられないからだ。ここでも人間の限界が立ち塞がっている。

さて、血液の波動による情報解析はやがて儀式として形骸化していくにつれそれは生贄や人柱として神との会話におけるコストを増やしていく結果となった。しかも、皮肉なことに、神との会話ができなくなったからコストを上げたのにもかかわらず、そのとき既にして人は神々との会話能力をすら失っていたのだ。

これではただの悲劇である。神々からすれば、いらん生贄をうやうやしく捧げられているわけで、もはやありがた迷惑ですらなく、なぜこんな無駄なことをし始めたのか!?という興味対象にはなったかもしれない。

つまり、生贄や人柱に古代的ロマンを感じるのは間違いで、そのとき既にして人の能力と認知次元は著しく低下していたのだ。人や他の生物を殺し血を捧げることに本質などありはしない。戦争でも生贄でも同根の理由であり、煎じ詰めれば自分自身の環境を良くしたいがためのことである。そのためにわざわざ他者の生命を奪うというのはあまりに芸のないハイコストだ。いらん負の念を大量に発生させてなんの益があろうや。

完全最適化された存在、それが魂なのであり、五次元以上の宇宙世界ではそれがスタンダードな在り方だ。

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・三次元地球における人間の美しさとは「意志と信念」に基づく。それらを自身の内に持つことが、魂の浄化に繋がる。だから、古来から教育とは「内なる光の受け渡し」と言われてきたのだ。

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・たとえば2032年で現地球の期間が終わりだとすると、2024年現在で地球輪廻の奴隷魂ではなく、星からダイレクトに降臨した神聖な魂を宿している子らが多いという10歳未満くらいの世代が大人になる頃、今の我々が体験しているこの三次元地球は宇宙に存在しないことになる。
彼らは我々が体験したこともないような速度で急成長を遂げていき、最低でもあと5年程度で仕上がりこの世界を牽引していく存在として成長するのだろうか。それは倫理道徳とサイキック能力を有した立派な「宇宙人」として立つ存在である。

とはいえ未来のかたちなど我々三次元呪縛に囚われた哀れな存在には知る由もないが、いつか未来の人類が、私が遺した膨大な無駄の軌跡を見て、きっと「随分アナログな理解で頑張ったんだなこの人。ご苦労さん」と一笑に伏すのを想像して私は苦笑いしている。

この哀れな私という存在は、なんとか存在の本質に迫りたいと願い、情報を得、想像力を働かせ、真理のカスすら体感できないでもがいているのだ。
いや、正確には既に日々体感していることに気がつけず、実感できないと思い込んでいる故に哀れの極みなのだろう。

未来の宇宙人リーダー達よ。私を笑ってくれ。

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・怒りや苦しみ、悲しみが人を成長させるのだと聞いて否と答える人は少ないだろう。それと同じように、我々からは至高存在のように見える五次元以上の存在たちは、それでも「存在の存在意義」により、もっと高みへ、より善い存在に成ろうとハイレベルな成長を模索する。
つまり、至高存在の成長にはある種のバグが必要なのだ。映画マトリックスで、完全最適化の維持における必要悪としてのバグとまったく同じように、我々が演じているこの三次元地球での経験はそのまま好例のバグとして、大本に体験をリアルタイムで共有し、保存されていく。

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・アカシックレコード、ゼロポイントフィールド、阿頼耶識、、古来から賢者と呼ばれる人々が啓示を受け脈々と受け継がれてきた、宇宙全体の過去現在未来全てが記録されている“場”が存在する。

かように名称は色々あるが、おそらく科学的仮説として用いられる「ゼロポイントフィールド」が今後の名称として一般化していくのではないだろうか。
そして、おそらく人類は皆このゼロポイントフィールドにアクセスすることが可能になるだろう。方法の可能性としては、超音波による覚醒意識状態の獲得などだ。深い瞑想でも可能だろうが、なにしろ辿り着くまでに遥かな時間と、やはりセンスが必要になる。人類が分け隔てなく宇宙の真理を獲得するには、外部からの補助という形でなんらかの科学的技術が必要不可欠なのは間違いない。

さて、このゼロポイントフィールドだが、過去現在未来が“同時”に存在しているというところが肝心だ。我々が過去生や前世と呼んでいるものは実は本質的に“過去”ではなく“同時”に体験している可能性が高い。つまり、“今・此処”の振る舞い次第で我々の魂が経験している幾次元にも跨るパラレルワールドは如何様にもなるのだ。

結局のところは、あぁ、いつものワンネスですね、という話にしかならないのだが、なぜ、ワンネスが大事なのか、という観点ではとても重要な認識であると私は思う。

「今を大事に」という言葉には、その言葉以上のものが含まれているということだ。

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・現代アートが詰んだ原因は、そもそも社会も人間も多様であるのに、社会は、世界は〇〇である、と規定し、だから私は、作品は〇〇を行なっているのであり、これこそが、私こそが現代アートだ!という“枠組みの更新”をベースに積み上げてきたからだ。
そもそも枠組みなどという囲いが虚構であるところ、その“虚構の枠組み”でもって積み上げたところで、それは砂上の楼閣にすぎないのだ。

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・いかにSNSが発展したとはいえ、やはり自分自身の価値観を大多数に表明するのは個人の生活においてリスクであると受け止められ、個々の発信量に対して、個々の感情ベースでのレスポンスが圧倒的に足りていない。
一方で劣化した感情はフィルターを通さずに吐き出され、結局は低俗なゴミ捨て場になってしまった。
本来は感動を共有する場としての機能がもっと果たされればSNSも社会益があると認知されただろうに、劣化した感情に劣化した人間性の同調が顕著になり、社会がそちら側に引っ張られる形になった。ということは、劣化した感情が社会を牽引する結果になってしまったということだ。

とはいえ、これは人間の社会的本質を炙り出しているとも言え、殆どの人は愚痴や悪口こそを求め、自分自身もそれを無遠慮に吐き出したい、ぶつけたい、という願望を持っているということだ。逆に感動の共有というところで見ても、ただの自慢程度にしかならないものがまた蔓延し、自分自身を盛りたいという虚構に拍車がかかる。

結局は現代における大多数の人間の精神は堕落と稚拙さを極めているという証左にしかならず、それで現代社会を語ってしまってはますます人類社会における希望は見出されないだろう。

しかし、確実に希望の芽があることも私は知っている。
希望の芽はSNSやインターネットの世界では埋もれているが、理性と知性のある人間は確実に各地で小規模の集団を形成しており、これらのコミュニティ力が最大化されるのは、やはり現在の社会における“破壊”が不可欠になってくると結論つけざるをえない。
なぜなら、宇宙のバイオリズムは「代謝と循環」であり、それは地球でも人体でも周期は違えど同じバイオリズムを持っている。故に人類社会においても無論のことこのバイオリズムに包含されており、破壊とは即ち人体で言えば咀嚼、吸収、消化にあたり、破壊された後には排泄があり、また世界は引き継がれつつも新たなスタートを切るという腸内細菌叢サイクルそのままの世界循環が行われるだろう。

つまり次世代の腸内細菌叢を形成する善玉微生物群として、希望の芽たる小規模集団は各地で力を溜め込んでいるのだ。胃腸炎の時に下痢を出し切って毒素を排出し切ることで、また新たなる再スタートを切ることができるのとまったく同じことなのだ。

次元上昇もまた宇宙の「代謝と循環」の一部なのである。

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・三次元地球での経験は基本「魂の浄化」が至上命題である。肉体と魂、宇宙意識における相関関係の真理にもし気付けたならば、あとはより良い存在になれるよう魂磨きに励むことだ。
では、この一切皆苦の幻影三次元世界に楽しみは存在しないのか。無論、大多数の人間が楽しいと感じる人間の人間による人間のためのあれやこれやの多くはただの思い込みで存在すらしないものだが、波長の合う他者との出会いやご縁、感覚の共感や共有、地球の一部になれたような感覚、自分自身が大きな何かに護られているような感覚、自然の美しさに見惚れる時など、心が振動するような体験の数々は我々にとって数少ない本質的な楽しみであり喜びではないだろうか。

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・(メモ「死は存在しない」田坂氏)宇宙意識とは何か完全なものではなく、それ自身が不断の「成長」と「進化」の“プロセス”にある。宇宙意識のその成長と進化のプロセスは、あらかじめ何も定まっておらず、極めて“創造的なプロセス”である。

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・宇宙がより良い存在に成ろうとしている。そのためのアセンションであり、また地球人だけでなく宇宙存在含めた幾次限にもわたる経験値の集約である。

正確に言うなら、なにも“良い存在”に成ろうとしているわけではないだろう。陰陽極点が存在しなければ比較が発生しないので、常に中庸的な状態しか在りえないからだ。要するに、良い存在には悪い存在が対置されなければ成立しえないからだ。

そのように多様な経験値を集約しながら宇宙意識も成長し、より安定していくのだが、やがてそこに小さな“ゆらぎ”が生じて波紋となり、ビッグバンがあるかないかはいざ知らず、少なくともその安定した真空状態から一気に光が生まれまた新たな宇宙が展開されていくのだろう。

つまり、「存在のマトリョーシカ」は宇宙にも当て嵌まるということだ。いくつもの次元、いくつもの“私”、いくつもの地球、銀河、そして、無数の宇宙が相互作用しながら自己組織化し、「創造的プロセス」を生きているのだ。

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・おそらく音に、波動に皆で共振するという体験はとても大事なものだ。田植え唄には田植え唄以上のものが潜んでいるはずだ。

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・人は本質から生まれて、忘れて、また取り戻す。このプロセスがとても大事だ。精神文明が発達していた縄文人は、それら能力と引き換えにして新たな進化を所望したという。されば現在は再び縄文的精神文化、再来の時節である。

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・寄付文化を否定しないが、寄付では結局、他人任せにしているし、寄付そのものが目的化して、その後をフォローしない場合が多くなる。たとえば間で中抜きが起こっていても探知できない。つまりそもそもの目的である社会益に資するには、直接社会益になるようなことを行わなければならないということ。それが主体的に社会益を考え社会に参加するということだ。

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・日本という島がそのまま御神体として、国常立大神そのものだとすると、我々は常在菌や腸内細菌叢を構成する微生物のようなものである。

自身の常在菌を顧みず殺菌行為にばかり勤しんだり、食べるという行為や食材に敬意を払わず腸内細菌叢に目もくれない輩は別として、それらの存在の大事さに気付き意識的にその環境を護ろうとしている人々において、さらに自分自身が現実的に国常立大神様の常在菌や微生物であると自覚したならば、地表をコンクリートやアスファルトで覆ったり、分解できない化学物質でゴミの山を排出し、あまつさえ海や大地をそのゴミで埋め立てるということが狂気の沙汰であるというのは自明であろう。

気付いた人は、まず洗剤を使わなくなる。水をきれいにしたいからだ。無論プラスチックの使用量も減るだろう。地球を守りたいからだ。また、土を耕し固定種を植え、種を継ぎ、人々とその恩恵を分かち合うようになるだろう。
急に変化しなくても、間違いなくそうしたところに向かうはずだ。

そうすれば、いかにこの「耕せない国」「無償で協力できない社会」が異常であるかということにとことん気がつくはずだ。

そう。ライフスタイルは環境から。素戔嗚尊の復活とはつまり、都市計画ひいては人類社会システムの抜本的な見直しなのだ。
他者からの搾取で贅沢したい人間は放っておけばいい。どのみち改心するかこの世から消えるかの二択である。

我々はもう既に、国常立大神様の御神体を正常にお戻しし始めていなければならないのだ。

次元上昇はあるだろう。しかしその本当の意味は殆どの人には分からない。三次元感覚では読み解けないからだ。神仕組みの最後の秘技、秘密の一手である。
確実に“その時”はくるのだから、あとはなるべく心軽やかに待てばよろしい。

しかしだからといって、何もしない、無関心でいいというのは虫が良すぎるだろう。
やはり我々は国常立大神様の常在菌、微生物であるという自覚と責任感を持つべきである。

SNSでの発信に勤しむべきは、“映え”や“盛り”ではなく、本質的な生き方の発信にこそある。
現代の「若さ=愛と革命」は、「耕作」にこそあり。

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・歴史的に見れば「正義」とは捏造可能であやふやなものだ。「善悪」もまた同様である。視点を変えれば善も悪に、悪も善になるというもの。では、この世に「確かなもの」などあるというのか。

答えは、あるわけがない。

そもそも生命の基本は代謝と循環に支えられた「動的平衡」である。
常に動的な世界で周波数を合わせる「軽やかさ」こそが我々の精神に求められる“構え”である。

敢えて三次元認知世界における「確かなもの」というならば、宇宙そして地球という大きな代謝と循環のバイオリズムの中で「生きる=生命活動の維持」ということのみが確かなものであると言えるのではなかろうか。

やたらと正義を振り翳してがなりたい気持ちは分かるが、虚しい挙動でしかないことは自明である。

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・八百万神、山川草木悉皆成仏。全てが神様。つまりは全てを自らより上に置くこと。全てが神様からの借り物、賜り物だと認識すること。借りているとは、いずれお返しするものだということ。この身体も然り。

人生とは「仮の旅人」

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・台湾における日本統治時代とは、我々日本人の歴史でもあるが、大きくは「台湾史における日本が関わった時代」と考えるのが妥当だろう。
そこで「湾生の孫」という繋がりを持った現代日本人の私にいかなるアプローチが可能なのかを考え、表現すること、それ自体に意味がある。

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・現在、我々が「私」と認識する「自己」はただ三次元世界での生において与えられたこの身体における脳内で作られた意識すなわち「エゴ」に他ならない。このエゴはせいぜい「三次元世界における人類社会や環境に対しての私」という程度の限定された世界認知を基にしたものにすぎない。そんな「自己」とやらは身体の死と共に大本にすっかり溶融してしまうものである。

魂における自己とは、【幾次元にも跨り同時に存在する記憶のデータベース】である。そのデータベースを格納している複雑な“世界意識”が、阿頼耶識、アカシックレコード、アーカーシャ、ゼロポイントフィールド、宇宙意識と呼ばれる“大本”である。

すなわち魂という存在状態における自己とは、全体から任意に取り出す部分であり、情報である。

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・世界末期に差し当たると、天災に伴い神懸かりが連発するようになるようだ。その神懸かりこそが三次元人類最後の“お役目”かもしれない。
そのお役目は人々に真実を知らしめる神の声を発信する拡声器である。
この拡声器の声を信じられるか否かが次元上昇の分かれ目になるだろう。信じるとはすなわち真実を信じられるだけの器を自分自身で育ててきたか否かということだからだ。

死という身体の手放しを通してしか魂という存在の本質が分からないのと同じように、我々が最後の真実を理解するには“その時”が到来するまでは不可能だろう。

我々ができるのは、“その時”に備えて自身を陽の氣で満たし波動を高く保つ「魂磨き」を行い、魂の錬磨に励むことだけだ。

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・“歴史的現在年としての今”において、今や完全に「霊性の時代」に入っていることは分かっている。それが具体的にいつからと言えるほど私は何も分かっていないが、現在が霊性の時代であることだけは感知できる。

今後、「今だけカネだけ自分だけ」の世界観に足を取られ続けるならば、それはなんらかの形で「時代に振り落とされる」というある種の淘汰の形をとって憂き目に遭うことになるだろう。

では、具体的に「今だけカネだけ自分だけ」はどのように変換されるべきかを以下に記す。まず“今”というものが魂の本質において過去現在未来が多次元にまたがり同時に存在しているという世界観に変換されなければならない。そして“カネ”というものが三次元におけるエネルギーが物質化した一つの形であり、カネそのものよりも、どういった波動的価値観を持つかを自身の意志と理想の持ち方で決めることに本質があるということへの理解に置き換えねばならない。最後の“自分だけ”とは無論のこと他者と自分を同一視する世界観にアップデートすべきなのだが、それはなにも倫理、道徳的な意味ばかりではなく、魂の本質においても我々はその大本では真に一つであるということを理解しなければならないのだ。

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・過去生を「キリストの一部だった」と言う人や「空海だった」と言う人が複数人いるということから推察するに、歴史に名が残っている偉人とは、いくつかの魂の協力によって成り立った存在であったのだろう。
無論のこと、本質的には過去現在未来が同時に存在しているわけだから、もしかしたらこの三次元地球における友人やパートナーは別次元において同時に魂の共同作業を行っているのかもしれない。

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・善悪同根。その悪、その悪さえも裏を返せば善の顔。

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・全ては振動する紐。個々の振動が共振してさながら世界は波動交響楽のようである。
では、なぜ世界はこんなにも震えているのか?

それは、無でなくむしろ全てが在る「絶対完全状態」としての量子真空に生じた微かな“ゆらぎ”に起因する。
ゆらぎは量子真空内で瞬く間に共振を起こし増幅し激しくなり、真空は耐えきれなくなり弾けた。世にいうビッグバンである。

ゆらぎから生じたエネルギーの増幅はやがて一点の強烈な光として収斂され、ビッグバンとして弾けた光の光線は永遠に伸び続ける。その光の内側こそが、闇と真空の世界で星々が瞬く、我が愛しき「宇宙」なのだ。

だから、宇宙の外側は光である。まさに光という無そのものである。そして、万物の振動は、辿られうる“ゆらぎ”そのものなのだ。

つまり、宇宙原初のゆらぎがそのまま今も我々万物の振動の内に在り続けている。
なぜなら我々は大きな宇宙意識の細分化された一部であるからだ。

この悠久の時間。途方もないほどに感じる漠としたイメージ。

魂が永遠であるというのは、魂から見てもこの宇宙が永遠と思えるほどに巨大に過ぎるからである。

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・(メモ:並木良和) 僕たちは、『習慣』で生きている生き物なので、昨日と同じ流れを、今日も生きていると思い込んでいたりしますが、実はそうではありません。
『昨日のあなたと、今日のあなたは別人』であり、『一秒前の自分と、一秒後の自分は別人』なのです。
僕たちは、毎瞬が繋がっているように感じていますが、『本当は一瞬一瞬は、全く繋がっておらず、独立して存在』しています。
何を言いたいのかというと、繋がっていないからこそ、『毎瞬まったく違う自分を選択することもできる』ということです。
つまり、『大胆に変化して良い』のです。

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・沖縄諸島から台湾にかけて与那国海底遺跡以外にも海底遺跡と呼ばれる場所があり、“大きな島が沈む伝説”や言い伝えが数多く残っているという。
であれば、たつき陵が見たという沖縄と台湾が繋がったビジョンはレムリアの再浮上に他ならない。だとすれば、我々の魂の故郷はカンボジアまで拡大することになる。なぜなら、並木良和によればアンコールワットもまたレムリアの遺跡であるからだ。

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・花背の文化的練度がすごい速度で上がっている。2025年以降の再始動は鞍馬地域が躍如しそうだ。

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・明治維新後の東アジアでポイントとなるのは、大きく分けてイギリスとロシアの牽制、西欧のウェストファリア体制、国民国家、産業革命、世界政治だろう。

清も朝鮮も政治的腐敗と旧態依然とした国家統治体制から抜け出られなかったものの、日本もそこは必死だった。
辛くも国民国家化し東アジアでの覇権を手にしてロシアにも清にも戦の上では勝利したかもしれないが、そうした表面上の結果よりも、“列強的な振る舞い”に夢中になったことが当時の日本の限界そのものではなかったか。

たとえば日米間で行われた不平等条約をそのまま朝鮮に適用した点などである。
西欧から学びを生かし、力による覇権的統治だけではなく独自の平和と統治を東アジアで実現する道はなかったのか。

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・本当の“愛国心”とはなにか。

それは「国家以前」を愛することだ。

なぜなら、我々は皆、土からできているからだ。

「国家以前」を愛するとは「風土」を愛するということ。

我々、日本人でいえば国民国家以前の「この列島」を丸ごと愛するということに他ならない。

先日の台風が過ぎ去りし日の夕方。ただただ、その現象に魅入っていた。

記事を読んでいただきありがとうございます!ARTに命を捧げています。サポート大歓迎です!現在の地球に生きる同士としてよろしくお願い致します◎