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糖度を見て買っちゃうじゃないか!

この文章は2005年5月。苺の収穫、その時期の終盤のころ、私が書き記したものです。
17年前でもこの糖度計は、活躍していました。今でも甘い果物など指標ですよね。
青いイチゴと表現していますが、その後白いイチゴとして見かけるようになるあの
イチゴです。私のこころの思いをつづっています。貴方が買ってきたもの、100%思った通りの甘さですか?

◆糖度計

 蒸し暑い初夏の日差しの中で、紅色の愛らしい三角錐をした新鮮な苺を手に入れるため知人をつたって苺農家を訪ねた。知人は青いイチゴが首都圏でPRされているのを知り、紹介してくださった。青いイチゴを口にした事などなかった私には、甘味もあって、青々しい酸味の味は確かに新しさを感じはした。ひと通り近場のハウスの苺を試食した後、この農家のご主人が、青いイチゴを摘み、熟れた赤い色の苺とを糖時計で糖度を調べてくれた。たしか以前食品メーカーで食品の提案を考えたとき、そこの品質主任も糖度計で計っていたのを思い出した。農家の作物の絶対的な評価はこの糖度によって、証明されるのだ。科学的食品PRなのであろう。一般にそういう器具はひと昔前にはなかっただろうし、学者が研究のために計っていたものを、ものづくりの人間が使用することが、当たりまえになったのである。人はそうやって、人間としての確かさを捨てていっているようにも感じる。味覚の感度は、人それぞれ違っているものなのに、数字化することは分かりやすさとは思う。だから誰でもが安心して、味を評価できる、甘いイチゴは価値があるのだろう。分かりやすいモノサシが非常に便利で当然の発展のように考えていること、そこには落し穴もあるじゃないかしら。そういうことを誰も考えていないのである。糖度計に翻弄され、金銭的価値とされる。いつの間にか、パーセントの高い甘いイチゴは美味しいイチゴと言葉をかえられ、駆逐していく。

人間だけが、衣服を着、頑丈な家に住み、歯を磨き、寝具を整え眠るのである。こんな不便な生きものはないのである。不便で複雑であるが、それが確かな人間としての生きかたでもあるのだから。
もう一度考えて見て欲しい。というのは、誰もまったく同じ味覚を有していないということが、大前提としてあるのである。そもそもその科学的証明が最大の信頼であるなら、感知できる人間が千差万別であって善いはずがないのです。だから、人はみな画一的に同じものを見て感動して泣き、笑い、怒り、喜ぶのであろうはずはないのである。苺にしたって、同ハウスでも同じ味にはならないし、育て方が同じでも、兄弟でも素質は違うであろうに、ハウスが違えば間違いなく味も多少は、違ってくるのである。みんな違うことが、出合いというのでないだろうか。
誰と会っても同じで、何を食べても同じ甘さを目差してしまう。糖度計で調べるということは、感知する人を画一化する物差しに思えてしまう。だがしかし、人は同じになる事は出来ないから、表面的に合わせてしまうのだ。思ってもいないのに、そのように口裏を合わせてしまう。今の作りこまれた食品は、おおむねそんなものである。どこぞで、おいしいと言えば、飛行機にでも乗って出かけて、雑誌で読んだ言葉をそのまま使用し、使われている言葉は流行というレールの上を走り、疲弊する。
私は思う、味の評価に百通り以上あったっていいではないか、自分が思う心で、自然に評価する言葉が必要なのである。モノを食うとは、つくってくれた人への温情が言葉になるべきであるから、その表現は、その人の生きた言葉でなくてはいけないのだ。自分がおいしいと思うところを探していくことがいいことではないか。そのために偏食にならぬよう、唯一つのルールは様々な食品を摂ることなのである。そして、作り手も、自分として、最善のモノを作ろうとする。自分が食べておいしいものを薦めるべきなのである。最善が甘いというならそれもよかろう。しかし、二の手はないのか。分かりやすいということが、何かをなくしている気がする。
だから、つくり手の言葉に生きた力を感じ、食べ手は感謝の言葉を返すのである。食が文化ということをよく耳にするが、この食文化を話す人が、または担う人が、糖時計を首にぶら下げているのである。数字でしか表現できなくなってしまうから。それをそっと横に置いてほしい。今年の出来として、一つの指標ではあるだろうが、そのことで線引きされてしまう。
その一粒がとても甘く大きなイチゴが作れたとして、一粒が高額なものが出来たとして流通させる際に値ごろ感で数個単位とかで箱にいれたりしますよね。その特別すぎるイチゴって世の中には、必要なのでしょうか。食べ物をその宝石のような価値にする意味はあるのでしょうか。
農家さんが生活して行くうえで、その他の方法はないのでしょうか?
その価値にするために何個もの廃棄(摘果)があるのではないでしょうか。それも命ではないですか?
是非自分の言葉を磨いて欲しいのである。おいしいこの食品はあなたにとって何なのか、あなたの言葉で話してみてほしい。それは食と言う文化なのであるから、愛情たっぷりに育て上げた貴方の思いは文学の域まで、味わえるものになるはずである。
ショートケーキに乗るイチゴもあれば、全然違う使い方がとても活かされもいいじゃないか。食材なのだから、表現してPOPになる世の中になってほしい。ドライになって高く評価されるイチゴもあっていいし。それぞれの価値で素敵な言葉で飾られるようになってほしい。
ひとつの指標だけで商品価値としてしまわないように。

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2022年余り変わらない、と思います。
品種も増え更に推し進めている感じです。
作り手の確認としての糖度計なのですから、自分たちのデータ蓄積にお使いください。テレビなどで〇〇度だと伝える必要は全くない。もともと酸っぱい果物売れないでしょ。
最近は糖度〇〇度と果物の売り場に表示され、それを目安にされて売られている。
その画一的価値によって、排除されているものがあるだろうし、すべての個体を計ってはないはずだ。それ以外を質の悪いものとされていないかな。
糖度計で測る値も、クエン酸や塩分含んだものらしいのであくまでも目安でしかないのだから

食べ方、扱い方のメニューなど工夫したり、それぞれの食材価値として、流通していくようになって欲しいのだけど。それぞれ価値があっていいじゃないか。と思っております。


どんな用途で果物を買われるのか、売り場での店主との大切な会話でオススメを聞いたりすることも大事な勉強だし、その会話がないことが、食文化全体の問題だ。魚屋さんはもっと深刻だろう。
昔は、量りは上皿のバネ量りで、温度計は、ガラスの棒で読みづらく、精度は断然現在のデジタルは便利で瞬時に計測できます。有難い進歩です。しかし普通に家庭で料理をする際に、何度で何分でという数字ばかりに気をとられ、感覚という人間が大事に積み重ねていくべき経験が、伝わりづらいものとして敬遠されていきます。食品の工場は機械化されていますが、ところどころ人間がチェックしたり、仕分けたりする、手が介在するものが多く、そういうオートメーションも沢山あると思います。便利はありがたいものです。それを使って人間が観察チェックすることも忘れてはいけません。
レシピを見て、あなたがお料理するとき、時間と温度を設定したらその場を離れていませんか?ときどき覗いて状況を確かめましょうね。
お料理というものづくりは、つねに「ゆらぎ」があるものです。いつのときも目安でしかないのだから。

※味覚というのは、舌の味蕾と鼻の奥。
さらにいうと五感をすべて使って総合的
に脳に伝達され判断しているとしたら、それほど複雑であれば、人はみな感じる強弱が あって、敏感鈍感といってもいいが、違ってくるとおもいませんか。それを伝えることはもはや、アート鑑賞でしょう。

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